2018年03月28日 公開
2019年02月27日 更新
明治27年(1894)3月28日、金玉均(きんぎょくきん、キム・オッキュン)が上海で暗殺されました。李氏朝鮮を革新し、近代化を進めようとした人物で、福沢諭吉をはじめ多くの日本人が支援をしました。
嘉永6年(1853)のペリー来航は、日本人に自国を含むアジアへの欧米列強の進出に、強烈な危機感を抱かせました。それによって日本国内では維新へと向かう幕末の動乱が起こりますが、多くの日本人は同時に、日本の安全のためには隣国朝鮮の近代化と独立は不可欠と考えていました。
しかし、その当時の李氏朝鮮は、経済的に破綻寸前であり、政権の分裂と内紛が繰り返され、行政は麻痺状態でした。さらには慢性的な農民一揆に脅かされ、政府はそれを鎮める軍事力も保有していなかったのです。
1863年、日本では京都で八月十八日の政変が起きていた文久3年、朝鮮国王の座に就いたのが、僅か11歳の高宗でした。そして幼い国王に代わって実権を握ったのが、父親の興宣、すなわち大院君です。大院君は列強の開港要請を徹底拒否する鎖国政策をとり、1868年(慶応4年)、日本からの新政府樹立の通告と国交・通商を求める国書も拒絶しました。そして清国に対して、伝統的な臣下の礼をとり続け、外交問題が起こる度に、清国の意見を仰いだのです。
しかし1873年(明治6年)、大院君は宮廷の内部抗争に敗れて失脚。代わりに台頭したのが、高宗の妃である閔妃(びんひ)とその一族でした。閔妃一族は反大院君勢力と開化派の官僚らを糾合して政権を樹立します。そして清国の働きかけで、朝鮮は1876年(明治9年)、日本と日朝修好条規を締結します。これは清国が朝鮮に、自分たちの管理で改革を進めることを求めたものでした。
一方、巻き返しを図る大院君は1882年(明治15年)、閔妃政権が進める軍の近代化に不満を抱く勢力に担がれて、再び政権を奪取します(壬午軍乱)。 この反乱に清国は付け込み、反乱鎮圧の名目で清国軍が朝鮮の首都・漢城を制圧下に置き、さらに不平等条約の締結を強要しました。さらに清国は開国に反対する大院君を拉致し、代わりに閔妃政権を復活させるなど、宗主国・清国の思惑に翻弄されながら、朝鮮では大院君と閔妃一族の間で不毛な権力抗争が繰り広げられるのです。
こうした自国の将来を案じて、断固、朝鮮の改革を果たそうと考える若き官僚たちがいました。その一人が金玉均です。金は1882年に日本に遊学し、福沢諭吉らと親交を結びつつ、日本の明治維新を模範とした清国からの独立、朝鮮の近代化を目指しました。
同年、「時事新報」に掲載された福沢諭吉の「金玉均の全貌」と題する文章の一部には「日韓の交際日に繁多なるの時に際して、我日本の友たるべきは彼の開花流の外に求むべからず。而して金氏(金玉均)の如きは党中の巨擘(きょはく)なれば…」とあります。金らは福沢の協力を得て、政界の井上馨、大隈重信、財界の渋沢栄一、大倉喜八郎などの他、榎本武揚、副島種臣、後藤象二郎などと連日会合を重ねます。彼らはおおむね金に好意的でした。
福沢は金に、極めて大切なことを伝えます。それは「独立・自主の重要性」でした。全世界の文明国はすべて完全な主権国家であるに対し、2000年の歴史を有する朝鮮が、朗大国・清国の下に甘んじているべきなのか。 福沢をはじめとする日本の各界のリーダーたちは、文化的啓蒙によって、金が李氏朝鮮を革新することを期待したのです。
金もまた、その期待を十分理解して、1884年(明治17年)に朝鮮に帰国。同年12月、郵便局開局の宴を利用して、閔妃政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こします。ちょうどその時、清国はベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を戦っており、朝鮮に干渉できないであろうと見込んでのものでした。
ところがクーデター決行直前に、清仏戦争が終結。敗れた清国は朝鮮だけは確保すべきと、清国軍を送ってクーデターを粉砕し、金の夢は3日で散ってしまうのです。この瞬間、朝鮮の独立・近代化は大きく後退することになりました。
その後、李氏朝鮮は密使をロシアに送り、ロシアの保護下で日清の干渉を防ぐことを目論みます。「小国は大国につかえることをよしとする」という悪しき「事大主義」のなせるわざです。ロシアが朝鮮に接近すると、清国も朝鮮への干渉をますます強め、朝鮮の独立を維持したい日本は、日清戦争に向かうことになります。
一方、失意の金は日本に亡命して9年を送り、その後、上海のホテルに滞在中に、閔妃政権の放った刺客によって暗殺されました。享年43。 青山墓地の墓碑には、「ああ大変な時期にたぐいまれなる才を抱き、大きな功績を残せず無情の死」という意味が刻まれています。
更新:12月10日 00:05