2018年03月27日 公開
2019年02月27日 更新
大塩平八郎・格之助の墓
(大阪市北区 成正寺)
天保8年3月27日(1837年5月1日)、元大坂町奉行所与力の大塩平八郎が自決しました。困窮する民衆を救うため、大坂で「大塩の乱」を起こしたことで知られます。
大塩家は代々与力として幕府に仕え、平八郎の父親も大坂町奉行所与力でした。寛政5年(1793)に生まれた平八郎は、25歳で正式に大坂東町奉行所の与力となり、同じ頃に陽明学を学び始めました。陽明学は「知行合一(ちこうぎょういつ、真の知と行動は一つ)」を説く、行動の学問です。
26歳で吟味役(裁判・訴訟・犯罪を調べ正す役)となった平八郎が直面するのは、奉行所の腐敗でした。同僚は賄賂を受け取り、それによって調べを手加減するのは当たり前。清廉潔白な平八郎に許せるはずがなく、調べを進めるうちにその元凶が西町奉行所与力・弓削新左衛門であることを突き止めます。
弓削は職権を乱用して手下に強盗や殺人を命じ、自身は巻き上げた金で遊び暮らし、捜査の妨害をしていました。平八郎は弓削の手下を次々に摘発して内部告発し、弓削を自決させて、没収した三千両を貧民への施し金としました。
しかし、平八郎に圧力がかかります。実は捜査の過程で幕府の高級旗本も複数、汚職に関与していることをつかんだのです。平八郎は上司の東町奉行・高井実徳の支援を得て、身の危険を顧みずこれに立ち向かいました。そして文政13年(1830)、平八郎が暴いた巨悪に裁決が下ります。その内容は小悪党を処分するのみで、高級旗本にはお咎めなしと、平八郎の努力を無にするものでした。そして上司の高井の異動を機に、38歳の平八郎は養子・格之助に職を譲って、失意のうちに奉行所を去るのです。
一方、平八郎は32歳の時に「洗心洞」という私塾を大坂天満の自宅に開き、門弟に陽明学を教える学者でもありました。毎日夕方に就寝し午前2時に起床。潔斎と武芸の稽古をして朝食、朝の5時から門弟に講義をして出勤(奉行所勤務時代)という生活だったといいます。天保3年(1833)には『洗心洞剳記(さっき)』を刊行、「口先で善を説くのではなく、善を実行しなければならない」ことを強調しました。
折しも同年より天保の大飢饉が始まり、米価が高騰。凶作は3年も続き、大坂でも餓死者が出ます。しかも豪商は米価の釣り上げを図り、米を買占めました。見かねた平八郎は東町奉行・跡部良弼に買占めを止めさせるよう上申しますが、却下されます。
次に平八郎は豪商に、自分の禄を担保に貧民救済のための借金を頼みますが、跡部が手を回しこれも破談。仕方なく蔵書5万冊や私財を売り、救済にあてますが、一時的な手当てに過ぎません。
「知行合一を説く自分は、何をすべきか」
平八郎は事ここに至り、武装蜂起によって奉行を討ち、商家の米蔵を開き、大坂城の備蓄米も救済にあてる決意を固めます。
天保8年(1837)、平八郎は家族を離縁し、大砲を準備。檄文を回して門弟をはじめ農民・町民の参加を呼びかけ、さらに大坂町奉行所の不正を訴える書面を幕閣宛てに送った上で、決起の準備を進めます。ところが内通者によって発覚、不完全なかたちで2月19日に起たざるを得なくなりました。
手勢は一時期300人ほどになりますが、幕府軍によって半日で鎮圧、平八郎は一月余り市中に潜伏しますが、追手がかかり、養子・格之助とともに自決しました。享年44。しかし幕臣・平八郎の救民のための決起は、幕府に衝撃を与えるとともに、多くの人々の胸を打ち、時代を変える一つのきっかけになったといえます。維新の30年前のことでした。
更新:12月10日 00:05