2018年03月21日 公開
2019年02月27日 更新
慶安3年3月21日(1650年4月21日)、柳生十兵衛三厳(みつよし)が亡くなりました。柳生但馬守宗矩(むねのり)の嫡男で、剣豪として知られます。
柳生十兵衛三厳は、はじめ三代将軍徳川家光の小姓を務め、後に剣術指南にもあたりますが、家光の勘気をこうむり、出仕しなくなります。それから十数年間、諸国を歩き、武者修行を重ねたとされますが、当時父親の宗矩が老中や諸大名の監視役である幕府惣目付(後の大目付)であったことから、勘気は表向きのもので、実は父親の密命のもと、隠密として諸国の動静を探っていたのではないかと小説などでは描かれることが多いようです。明治の剣豪・山田次朗吉は『日本剣道史』の中で「十ヵ年ばかり九州にあって、島津家の動静を探った」と記しますが、詳細はわかりません。
十兵衛が傑出した剣士であったことは将軍の剣術指南にあたったことや、祖父・柳生石舟斎の生まれ変わりなどといわれたことからも窺えますが、一つの証拠として彼が考案した「十兵衛杖」というものが伝わります。孟宗竹を3本合わせ、間に鉄板を挟み、全体に苧麻(からむし)を巻いて和紙を貼り、さらに漆を塗ったものです。十兵衛はこの杖を持ち歩き、山中で山賊などに襲われると、帯刀を大人しく渡した後で、この杖で賊を叩きのめしたといわれます。無用な殺生を嫌い、こんな相手は斬るまでもないということなのでしょう。
また宗矩が将軍家兵法指南役を務めたことで、柳生の剣である新陰流は「将軍家御流儀」となり、各藩もそれに倣って宗矩の高弟たちを指南役に迎えたことから、十兵衛はそれをつてに各地を廻ることができたともいわれます。
十兵衛は、領地である大和柳生で鷹狩を行なった際に急死します。享年44。卒中であったとも、何者かに暗殺されたともいわれますが、死因はわからず、彼のミステリアスな部分をさらに広げることになりました。なお、映画やテレビでは必ず隻眼の剣士として描かれ、父親との稽古中に事故で失ったとも、手裏剣を受けたなどともいわれますが、現存する肖像画は隻眼ではありません。
更新:12月10日 00:05