2018年03月17日 公開
2019年02月27日 更新
昭和17年(1942)3月17日、谷豊が没しました。マレー半島で、華僑を襲う盗賊団、さらに日本陸軍の諜報員を務めた人物です。「快傑ハリマオ」のモデルとして知られます。
サングラスとターバン姿をトレードマークに、マレー半島で善を助け、悪を懲らしめる正義の味方「快傑ハリマオ」。昭和35年(1960)に石森章太郎の絵で「少年マガジン」に連載が始まり、同年テレビドラマ化もされたことを、ご存じの方もいらっしゃるでしょう。この「快傑ハリマオ」のモデルとなったのが、谷豊です。
豊は明治44年(1911)、理髪業を営む谷浦吉の長男として、福岡県筑紫郡日佐村(現在の福岡市南区)に生まれました。大正2年(1913)、豊が2歳の時に、一家はマレー半島のクアラ・トレンガヌに移住し、理髪業を始めます。当時のマレー半島はゴムや錫の生産で繁栄しており、日本企業も多く進出して、トレンガヌ州には日本人街もできて賑わっていました。豊の家族は、そんなマレーで一旗上げるべく移住したのです。子供の頃の豊の遊び相手は、マレー人や中国人でした。
大正7年(1918)、父親の「日本人は日本の教育を受けるべき」という方針から、豊は妹と帰国し、伯父の家から小学校に通います。 昭和2年(1927)、16歳の時にマレーに戻り、家業を手伝いました。当時の豊は気さくで、喧嘩っ早かったといいます。
19歳の頃、イスラム教に改宗、マレー人との結びつきはより強まりました。昭和6年(1931)、豊が20歳の時、父親の命令で徴兵検査を受けるため、再び福岡に赴きます。しかし結果は不合格。身長が僅かに足りませんでした。豊は国内の鉄工所などで働き、休日には仲間と飲み屋で騒ぎますが、この頃からリーダー的存在だったといいます。また貧しい友人に、自分の田を売って資金援助をしたりもしました。
昭和8年(1933)、豊を激昂させる事件が起こります。当時、マレーでは華僑の排日暴動が頻発していましたが、中国人の暴徒がトレンガヌ市街に入り、豊の父親が営む理髪店に押し入ると、その2階でたまたま風邪をひいて寝込んでいた豊の末の妹・静子(当時7歳)を虐殺し、妹の首を切断してさらしものにしたのです。その犯人はすぐに逮捕され、死刑となりましたが、豊は可愛がっていた妹がむごたらしく殺されたことに激しく憤り、復讐を誓って単身、マレーに戻りました。
しばらくすると、マレーで頻繁に裕福な中国人宅やイギリス企業を襲う盗賊団が現われます。盗賊団は人には一切危害を加えず、また奪った金品の一部を貧しい人々に分け与えたため、困窮にあえぐ人々が感謝し、マレーでは密かに快哉を叫ぶ人が少なくありませんでした。その盗賊団を率いたのが、豊です。豊は友人のマレー人たちとともに主に華僑を襲い、数年間、マレー半島を転々としました。マレー語とタイ語を駆使し、敬虔なイスラム教徒でもある豊はマレーの人々と同化し、豊が日本人であることを知らなかった現地人もいたといいます。
昭和12年(1937)、トレンガヌ州より豊に国外追放命令が出され、昭和14年(1939)、タイ南部のパタニでパスポート不携帯を理由に捕えられ、入牢。ところが豊に地元資産家の娘が一目ぼれし、彼女の親が保釈金を払って豊を釈放させました。娘と結婚した豊は、クレセット村(現在のバンプー村)でようやく落ち着いた生活を始めます。
昭和16年(1941)初頭、そんな豊に接近してきたのが、日本陸軍の諜報機関でした。実はタイ警察に豊の保釈金を払ったのは、日本の諜報機関であったという説もあります。豊に接触したのは、当時、昭和通商嘱託という肩書きの諜報員・神本利男でした。マレー人として生きることを願う豊は最初、神本の協力依頼を断りますが、米英との開戦が濃厚となっていた日本陸軍としては、マレー半島のイギリス軍勢力を駆逐するため、豊を味方にしておきたかったのです。
神本は藤原岩市少佐の藤原機関(F機関)に所属し、豊を協力者として獲得する作戦を「ハリマオ工作」と呼んでいました。ハリマオとはマレー語で虎を意味し、豊をハリマオと呼ぶのはこの辺に由来するのでしょう。マレーの森を神出鬼没に跳梁する豊らを、虎になぞらえたものでしょうか。神本の熱情籠もった説得と、神本自身がイスラム文化への造詣が深く、ゆくゆくはイスラム教徒になりたいという言葉に動かされた豊は、盗賊団あげての協力を承知しました。
昭和16年12月8日、海軍の真珠湾攻撃と同時に陸軍もマレー半島に上陸、イギリス軍と交戦することになります。 陸戦史研究普及会編『マレー作戦』には9日15時頃、安藤支隊長は第一大隊とともにヤラー部落に入り、予め潜入していた藤原機関の少尉3名、石原産業社員2名、及びハリマオこと「マレーの虎」と通称されていた谷豊ら6名と会ったと記されています。また同書には豊について「谷豊なる人物は30歳に満たない日本青年であった。日支事変の当初、華僑の排日運動が激しかった頃、その襲撃を受けて妹を虐殺されるに及び、憤然として匪賊になり、巧妙な行動と義侠的態度によってその頭目となり(中略)、最盛時には現地人3000人を擁し、マレー人の間に相当な信望を集めていた」とあります。
豊の情報は、他の諜報員よりも正確であったといわれます。豊とその部下たちは土地勘を活かし、日本軍上陸地点の選定、英国軍インド傭兵の解放工作、ペラ河上流のダム破壊阻止など、数々の功績を残しました。
しかしそうした作戦の最中に豊はマラリアに感染、日本軍が所有する薬剤キニーネの使用を拒み、マレーの伝統治療を受けますが、その甲斐なく、シンガポール病院において、神本が付き添う中、没しました。享年31。遺体は部下たちが引き取り、イスラム式の葬礼を行なったといいます。
イギリスも日本軍もマレーの人心をつかんだとはいえない中、若き豊がなぜ現地の人々の心をつかみ、彼と生死をともにしようとする部下が少なからずいたのか。そこにはあくまでマレー人として、マレーのために生きようとする豊の心が存在したからなのかもしれません。
更新:11月21日 00:05