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スマラン事件とは~ブルー刑務所の惨劇

2017年10月15日 公開
2018年09月25日 更新

10月15日 This Day in History

インドネシア独立記念塔 モナス
インドネシア独立記念塔(モナス)
 

インドネシアのジャワ島でスマラン事件が発生

今日は何の日 昭和20年10月15日

昭和20年(1945)10月15日、インドネシアのジャワ島でスマラン事件が起こりました。旧日本軍とインドネシア独立派の武力衝突事件です(正確には14日から5日間。五日間戦争とも)。

インドネシアは300年もの間、オランダが統治していましたが、太平洋戦争が勃発して昭和17年(1942)3月に日本軍が進攻し、攻略します。以後、日本軍は融和政策をとり、愚民政策をとっていたオランダとは全く異なる統治を行ないました。すなわち「働きなさい、学びなさい」というもので、農業を振興させて米の収穫を倍増させるとともに、小学校建設や児童教育を奨励して、文字やさまざまなことを教えました。これは勤勉と教養の大切さを知ることで、「独立精神」を養うためであったといわれます。

日本は軍政の方針として、インドネシアを独立の方向に誘導はしましたが、「日本が戦争で勝ったら独立させる」とは決して言いませんでした。なぜか。 当初、統治にあたった第十六軍司令官今村均中将は次のように語っています。 「独立とは、自ら戦い、勝ち取るものだ」。自分たちの手でつかみとらない限り、真の独立にはならないし、インドネシアのためにもならないと当時の日本人は考えていたのです。 そして、独立を望む若者たちを集めて兵補とし、鉄砲の扱い方をはじめ、具体的な戦い方を教えました。その若者たちが中心となって、祖国防衛義勇軍(PETA)が結成されます。

日本人とインドネシア人が交流を深めた3年が過ぎ、昭和20年、日本は連合国に降伏。インドネシアを再占領すべくオランダが戻ってきました。PETAの若者たちは、旧日本軍将兵に武器の譲渡を求めます。しかしポツダム宣言受諾により、武器は連合軍に引渡し、インドネシアに渡すことは厳禁とされました。 旧日本軍将兵は教え子たちと板挟みとなり、苦悩します。

そして、事件が起こりました。 ジャカルタ、スラバヤに次ぐ第3の都市・スマランで、若者たちが暴走し、日本人の軍人だけでなく、軍属や一般人をも拉致して抑留、人質と引き換えに武器を得ようとします。以下、元スマラン憲兵隊の青木正文さんに直接伺ったお話を紹介します。

「市内のブルー刑務所に、多数の日本人が監禁され、生命が危険な状態に置かれている」との情報がスマラン憲兵隊にもたらされたのは、10月16日のことでした。すでに市内では、若者たちと大規模な戦闘状態に入っている部隊もあります。憲兵隊40人は、単独でブルー刑務所に監禁されている日本人救出に向かいました。武装は拳銃と軍刀のみ。もとよりインドネシア人を撃つつもりはなく、威嚇と万一の時の自決用であったといいます。

17時。ブルー刑務所正門前に至った彼らは、暴徒の機関銃掃射を掠めて、刑務所内に飛び込みました。「日本人はいるか」と大声を上げて突入すると、あわてて外に逃げてゆく暴徒が30人ほどいました。青木さんたちは彼らに構わず、監房へと走ります。しかし、監房内は血の海でした。すでに殺戮が始まっており、多くの日本人が鉄格子ごしに機関銃で撃たれ、庭に引き出されて竹槍で突き殺されていたのです。それでも無事だった日本人も多数いました。約400人いた日本人のうち約130人が殺されていました。 それは3番目の監房であったといいます。部屋の中の日本人全員が倒れ伏し、床は靴がすべるほど血が流れていました。ふと顔を上げた青木さんは、壁に血がついているのに気づきます。よく見ると、それは血で書かれた日本語の文字でした。

「インドネシアの独立を祈る 万才」

才の字を書いている時に息絶えたのか、文字は途中で掠れていました。日本人が死ぬ間際に、自らの血で書いたものです。自分を殺す相手の国の将来を思い、死んでいったのです。青木さんはすぐに憲兵隊長を呼びました。駆けつけた隊長は壁を見るなり絶句します。そして絞り出すような声で「遅かった。我々があと半日早く突入できていれば…。これはインドネシアの高い地位の者に見せねばならぬ」。

やがて、オンソネゴロ省知事と市民病院長が連れて来られ、壁の前に立ちました。通訳は青木さんでした。「これは、インドネシアの独立を願いながら、従容として死んでいくという意味です」と話すと、二人は理解しました。青木さんは続けて「あなたたちの敵は日本人ですか? もう一度植民地にしようと、近く上陸してくる者こそ、本当の敵ではないのですか?」 その瞬間、沈黙していたオンソネゴロの顔は蒼白となりました。

彼はブルー刑務所を出るとすぐに、ラジオで民衆に呼びかけます。「日本軍と、これ以上戦ってはならない」。その呼びかけで、5日間続いた不幸な事件はようやく幕を下ろしました。

青木さんは語ります。「この事件は単なる暴徒と日本軍の衝突ではなく、その背後にはインドネシア人と日本人を戦わせて、双方疲弊した後に再占領を目論むオランダの謀略や、共産主義勢力の使嗾があったでしょう。しかし私は、インドネシアの人々を恨む気持ちはありません。彼らの事情も十分理解できるからです。当時の日本軍将兵の共通認識として、『自分たちはインドネシアの独立を助けよう』という純粋な思いがありました」。

実際、日本の降伏後、2000人とも3000人ともいわれる日本軍将兵が祖国に帰らず、独立義勇軍に加わり、インドネシア人とともに戦いました。 「このまま日本に戻っては、インドネシアの人々に嘘をついたことになる」「及ばずながら協力し、彼らの独立を見届けようじゃないか」。 そのうち約1000人が戦死しました。インドネシアでは彼らを国家の英雄として敬い、ジャカルタの英雄墓地に葬っています。

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