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ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎~日本とベトナムの絆

2017年12月26日 公開
2018年12月03日 更新

12月26日 This Day in History

ファン・ボイ・チャウ没後70年を記念して建立された日越友好之碑

ファン・ボイ・チャウ没後70年を記念して建立された日越友好之碑(ベトナム・フエ市)
 

ベトナムの反仏独立運動指導者・ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が生まれる

今日は何の日 1867年12月26日

1867年12月26日、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が生まれました。ベトナムの反仏独立運動に加わり、日本に援助を求めたことで知られます。

19世紀のアジア諸国は西欧列強による植民地化と、圧政に苦しめられていました。日本の明治維新も、その危機感が最大の要因です。ベトナムでは、フランス統治政府の支配下に置かれていました。1905年(明治38年)、日露戦争で日本が大国ロシアに勝利すると、10代の頃から独立運動に身を投じていたファン・ボイ・チャウ(当時ベトナムの革命組織・維新会代表)は、日本に武器援助を求めるべく、密かに日本を訪れます。

チャウは伝手を頼って政治家の大隈重信や犬養毅らに面会、支援を要請しますが、大隈や犬養は、日本が革命闘争のために武器を供与することはないと断りました。そして、革命のための人材育成ことが先決ではないかとチャウに問い、留学生を日本に迎えてはどうかと提案します。チャウが同意すると、犬養はすぐに留学生受け入れのために動きます。陸軍参謀次長の福島安正や、東亜同文書院の根津一らに相談して、最初の留学生4人を東亜同文書院が運営する中国人のための学校「東京同文書院」に入学させるのです。

チャウもまたベトナムの若者を日本で学ばせて、人材を育てることに尽力します。祖国に日本留学を促す文書を次々と送り、若者たちの背中を後押しするのです。その結果、ベトナムの若者たちが続々と日本に留学、最盛期の1908年(明治41年)には200人を数えるに至ります。その中には王族のクォンデ侯の姿もありました。このベトナムの若者たちを留学させる動きを東遊(ドンズー)運動と呼んだといいます。

ところがこうしたベトナムの若者たちの動きを危険視したフランスの統治政府は、日本に対して留学生受け入れをやめるよう強くねじ込みました。 やむなく日本政府は明治41年に、学生たちに解散命令を出します。チャウにすれば痛恨の出来事でした。行き場を失った学生たちを抱えて資金は底をつくと、チャウは、藁にもすがる思いである日本人を頼ります。 1年前、道で行き倒れていたあるベトナム人民主主義運動家を助け、同文書院に入学させて学費の面倒まで見たというその日本人は、浅羽佐喜太郎といいます。

浅羽は東浅羽村(現在の静岡県袋井市)出身の医者ですが、生来、困っている人がいると放っておけない性格で、貧しい人からは治療費をとらず、むしろ施しをするような人でした。偶然にもチャウと同い年です。チャウからベトナム人留学生の窮状を聞いた浅羽は、「手元にはこれだけしかありませんが」と1700円の資金を提供して、チャウを助けます。当時、小学校の校長の月給が18円位といいますから、現在の4000万円以上にあたるでしょうか。以来、2人は親交を結びますが、翌年、日仏協約に基づくベトナム人留学生国外退去命令が出されました。日本を退去する時もチャウは浅羽のもとを訪れ、厚意を謝し、再会を約束しています。しかし、浅羽は結核を病んでおり、病状は悪化しつつありました。 そしてチャウが日本を去って1年半後、浅羽は43歳の若さで世を去ります。訃報を中国で受けたチャウは、慟哭したことでしょう。

1917年(大正6年)、チャウは日本に密入国し、その翌年にも再び来日しました。 チャウは佐喜太郎の墓前に感謝の石碑を建てたいと考えますが、完成までには200円以上必要です。しかし手元に残るお金は120円。 チャウは東浅羽村の村長に会い、自分の気持ちを伝え、中国に行って資金を調達してまたここに来ると言います。すると村長は、チャウを小学校に連れて行き、そこに村民を集めました。そして浅羽佐喜太郎の功績を讃えた上で、「いま、異国の方々がはるばるここまで来て、浅羽先生の石碑を建てたいとおっしゃる。我々も協力しようではないか」と呼びかけると、割れんばかりの拍手となりました。チャウは当初見込んでいた予算の半分で、石碑を建てることを得たのです。チャウは「完成の日に、村人たちは自分たちを主賓として祝宴を張ってくれた。村長をはじめとする人々の計らいだった。このような日本人の義をベトナムの同胞に知らせたい」と記しています。

その後、チャウは上海でフランスの官憲に逮捕され、終身刑を言い渡されますが、その後、恩赦を受けて、自宅に軟禁されたまま1940年(昭和15年)に72歳で没しました。 チャウが目指した独立は、クォンデ侯を擁立しての王政復古で、ホーチミンの共産主義革命とは一線を画していました。いずれにせよ、チャウは祖国の独立を見ずに世を去りましたが、その足跡は日本との関係の中でしっかりと残ったというべきでしょう。なお、石碑には以下の意味の文が刻まれています(前半部分のみ)。

われらは国難(ベトナム独立運動)のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。 蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。

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