2018年03月16日 公開
2019年02月27日 更新
平林寺・大河内松平家廟所
(埼玉県新座市)
寛文2年3月16日(1662年5月4日)、松平伊豆守信綱が亡くなりました。武蔵国忍藩主、初代川越藩主で、老中を務め、「知恵伊豆」の異名で知られます。
慶長元年(1596)、徳川家家臣・大河内久綱の子に生まれた信綱は、6歳の時に叔父・松平正綱の養子となりました。慶長8年(1603)、8歳の時に将軍徳川家康に初めて拝謁。翌年、将軍世子の秀忠に嫡男・家光が生まれると、家光付きの小姓を命じられます。
家光がまだ幼い頃の話に、父・秀忠の寝殿の軒に雀が巣を作り、家光がひなを欲しがります。やむなく少年の信綱が夜を待って、寝殿の屋根に登って巣を取ろうとしたところ、誤って庭に落ち、秀忠に気づかれました。「誰の指図で参ったか」と質されると信綱は「私が、巣が欲しかったのでございます」としか答えません。秀忠は事情を察しつつも、「強情な奴め」と信綱を大きな袋に入れ、口を縛って柱に括りました。家光の母・江もそれと察し、翌朝、信綱に朝食を与えます。やがて再び秀忠が来て誰の指図かを問うと、信綱は昨晩と同じ返答でした。秀忠は感心して信綱を解放してやり、江に「信綱がこのまま成長すれば、家光のまたとない忠臣となろう」と語ったといわれます。
慶長16年(1611)に元服、元和9年(1623)に御小姓組番頭に任ぜられ、家光の将軍宣下の上洛に従い、従五位下伊豆守に任官されました。寛永5年(1628)、新たに8000石の所領が加増され、33歳で1万石の大名となります。寛永9年には老中と御小姓組番頭を兼務し、翌年、3万石で武蔵国忍藩に移封。寛永11年(1634)には老中及び若年寄の職務定則を定めるなど、政務に辣腕を振るいました。家光の信頼篤く、春日局、柳生但馬守宗矩と並んで信綱が家光を支える鼎の足の一つといわれるのも、この頃からです。
寛永14年には島原の乱に対する幕府軍総大将として現地へ出向き、乱を鎮圧しました。その功で寛永16年(1639)、6万石で武蔵国川越藩に移封します。信綱は幕府の政務だけでなく、民政にも尽力し、川越と江戸を結ぶ新河岸川の整備や玉川上水、野火止用水の開削などを進めました。
家光没後、4代将軍家綱時代に起きた明暦の大火後の話があります。信綱は老中首座の権限で、独断で17家の参勤交代を免除しました。これについて御三家の紀州頼宣が非難すると、「このようなことを合議すると時間がかかるので、落ち度があれば責任は全て私が負う覚悟で取り決めました。この度の大火で江戸は家屋も米蔵も焼失しております。そのような時に参勤で地方から多くの大名家が来れば、食物が不足し、さらに民を飢えさせることになりましょう。今は江戸の人数を増やさぬことが民のため。また万一この機を狙った逆意の徒があったとしても、江戸での騒ぎでなく地方であれば、また防ぎようもあろうかと愚考いたしました」と応え、頼宣を感嘆させたといわれます。明暦の大火後に、江戸城天守再建を棚上げした保科正之の話は有名ですが、信綱もまた民を案じていました。
それから5年後、信綱は老中在職のまま病没します。享年67。乱世から泰平の世に向かう幕藩体制確立期の、幕閣の大黒柱を務め上げた生涯でした。一般に信綱は切れ者のイメージですが、とんち話めいた逸話も多く、小説の主人公にしても面白いかもしれません。
更新:12月10日 00:05