2018年02月27日 公開
2019年01月24日 更新
寛永15年2月28日(1638年4月12日)、島原の乱で原城が落ち、天草四郎が討死しました。天草四郎については史料が乏しいこともあり謎が多く、さまざまな創作作品が生まれています。
天草四郎の本名は益田四郎時貞。父はキリシタン大名・小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次で、肥後天草で帰農していたといわれます。
四郎は幼少より聡明で容姿端麗、カリスマ性があり、キリシタンたちの間で救世主的存在と見なされるようになっていったようです。それに伴って、盲目の少女に手を触れると視力が戻った、白い鳩が舞い降りて掌の上に卵を産み落とし、その中に聖書が入っていた、海上を歩いたなどという奇跡譚が語られるようになりました。
折しも肥前島原周辺の農民は苛酷な年貢取立てとキリシタン弾圧に反発、さらに改易による牢人が増加しており、これらが結束して寛永14年(1637)10月、一揆を起こします。一揆は瞬く間に島原半島全域に広がり、島原藩松倉家の軍勢を寄せ付けません。さらにこれに呼応して天草地方でも一揆が起こり、その盟主とされたのが16歳の四郎でした。
やがて天草勢は海を渡って島原勢と合流、廃城となっていた原城跡を拠点とします。その数、およそ3万7000人(ただし半数は非戦闘員)。一説に一揆軍には、カトリック国のポルトガルが援軍を寄越す手筈であったともいわれます。
これに対し幕府は九州の諸大名を動員して攻撃しますが、統制がとれずに攻めあぐね、老中・松平信綱を派遣して12万もの軍勢で原城を囲み、兵糧攻めにします。そして信綱は、キリシタンとなることを強制された者を赦免する触れをだすなど、籠城軍の切り崩しを図ります。これに対して四郎は「益田四郎 ふらんしすこ」名義で「四郎法度書」を発布、一揆を「神の慈悲に応えるための奉公」とし、動揺をおさえたといいます。
しかし食糧の備蓄のない一揆勢は次第に窮し、寛永15年2月27日から開始された総攻撃で原城は陥落、四郎は炎の中で自刃したといわれます。ただし、キリスト教は自殺を禁じており、四郎の最期はつまびらかではありません。
一揆側は、籠城した者のことごとくが討死しました。俗説に天草四郎は豊臣秀頼の落胤などともいい、生涯を伝説に彩られています。
更新:11月22日 00:05