2018年03月15日 公開
2019年02月27日 更新
慶安4年3月15日(1651年5月4日)、水野勝成が没しました。徳川家康の従弟ながら直情径行、波瀾万丈の生涯を送ったことで知られます。
水野勝成は永禄7年(1564)、水野忠重の長男に生まれました。幼名、国松。通称、藤十郎、六左衛門。父の水野忠重は徳川家康の母・於大の方の弟ですので、勝成は家康の従弟にあたります。初陣は天正7年(1579)、16歳の時の高天神城攻めで、翌年、父・忠重が織田信長の家臣となり、刈谷3万石の大名となると、勝成は奥田城などを任されたといわれます。また同年から第二次高天神城の戦いが始まり、勝成も父・忠重とともに参加。翌天正9年(1581)には兜首2つをあげる武功を立てて、信長から感状と刀を賜りました。
天正10年(1582)に本能寺の変が起こると、勝成はなぜか父のもとから離れて家康の軍勢に加わり、信濃をめぐる北条氏との黒駒の合戦で戦っています。天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では、父・忠重は織田信雄の与力となっており、勝成もこれに従って、織田・徳川連合軍の一員として羽柴秀吉との戦いに臨みました。戦線の膠着打破のため、羽柴秀次の別働隊が三河を衝こうとすると、忠重が先鋒となって徳川勢とともに秀次隊を攻撃、勝成は先駆けて一番首をあげる武功を立てています。この長久手の戦いで森武蔵守長可を銃撃したのも、水野の家臣でした。
さらに同年の蟹江城の戦いでは勝成は徳川勢と行動をともにし、織田・徳川連合軍は伊勢桑名で秀吉軍と睨み合います。ところがこの陣中で、勝成は父親の寵臣・富永半兵衛を斬殺しました。勝成の不行跡を忠重に告げ口したのが原因といわれます。これに激怒した忠重は、勝成を勘当しました。出奔した21歳の勝成は京都に向かい、しばらく乱暴狼藉を働いていたようです。
翌天正13年(1585)の四国征伐には仙石秀久の陣に加わって武功をあげ、秀吉から摂津国に700石の知行を与えられました。ところが天正14年(1586)、父の忠重が秀吉の直臣となったため、勘当した親と同じ羽柴の家中にいるわけにもいかず、勝成は知行を捨てて牢人となります。とはいえ勝成は単なる武辺だけの無頼漢ではなく、書画、能、謡などにも堪能で、いうならば「傾奇者」の範疇に入る人物と見るべきなのかもしれません。あの前田慶次郎とも似通った雰囲気があります。しかもその武勲は世に知られているため、行く先々で大名から声をかけられました。
天正15年(1587)には肥後隈本(熊本)城主・佐々成政に1000石で召し抱えられ、肥後国人一揆の鎮圧に活躍。佐々成政が切腹し、新たに小西行長が肥後に入ると、同じく1000石で仕えます。さらに加藤清正、立花宗茂を経て、豊前の黒田官兵衛に仕え、ようやく腰を落ち着けるかに思われました。黒田家中では豊前国一揆の鎮圧に活躍し、長岩城攻めの折は、後藤又兵衛と殿を争ったといわれます。後年、大坂の陣であいまみえる二人でした。
ところが天正17年(1589)、官兵衛が隠居し、息子の長政が秀吉に拝謁するために船で大坂に向かうことになり、勝成も随行しますが、備後鞆の浦で下船した勝成は行方をくらませました。一説に長政から水夫の手伝いを命じられたことに怒ったとも、秀吉に会いたくなかったためともいいます。
しばらく備後を流浪し、成羽の三村親成の食客となっていた勝成は慶長3年(1598)3月、伏見城で徳川家康に謁見し、家康のとりなしで父・忠重の勘当が解かれました。時に勝成、35歳。水野家を出奔してから14年の歳月が流れていました。
同年、秀吉が没すると、家康と石田三成の対立が先鋭化します。慶長5年(1600)、家康は上杉討伐を号令し、勝成もそれに従って下野小山にいた時に、父・忠重の訃報が届きました。西軍への誘いを断ったため、三河池鯉鮒(ちりゅう)で加賀野井重望に殺害されたのです。加賀野井はその場で、堀尾吉晴に討たれました。やむなく勝成は三河刈谷に戻り、水野家を襲封するとともに、出陣の支度を整えます。直後に生起した関ケ原の合戦では、勝成は家康の命で大垣城の備えとされたため本戦には参加していませんが、合戦後に大垣城を降伏開城させました。
翌慶長6年(1601)、勝成は従五位下日向守に叙任。日向守はかつて明智光秀の官名であったため、嫌がる者も少なくありませんでしたが、勝成は「馬鹿な縁起かつぎ」と笑いとばし、進んで受けたといわれます。「鬼日向」の誕生でした。
慶長19年(1614)からの大坂の陣には、息子・勝重(後の勝俊)とともに参陣します。冬の陣では目立った戦いの機会はありませんでしたが、翌年の夏の陣では大和口の先鋒大将に任じられました。しかし勝成の性格を知る家康からは「大将たる者は先頭切って戦ってはならない」と釘を刺されています。
5月6日早朝、2万の軍勢を統括する勝成が道明寺に至ると、大坂方の軍勢が小松山に拠って立ちはだかります。しかもその将がかつて黒田家中で同僚だった後藤又兵衛となると、もはや勝成は血のたぎりを抑えることができませんでした。勝成は家康の言葉を無視して自ら一番槍をつけ、後藤隊と激闘を演じます。又兵衛討死後、やや遅れて到着した薄田兼相も水野隊が討ち取ったともいわれます。
さらに翌日の天王寺口の戦いでは、真田幸村隊の突撃で家康本陣が蹂躙される中、勝成は茶臼山を押さえて真田隊の退路を断ちました。さらに明石掃部隊の猛攻で松平忠直隊が崩壊寸前となると、勝成は松平隊を叱咤しながら、明石隊を撃退したといわれます。そして大坂城桜門に一番旗を掲げました。
大坂の陣の目覚しい活躍により同年、勝成は3万石を加増されて大和郡山6万石に移封となります。さらに元和5年(1619)には、4万石加増されて10万石で備後福山に入りました。幕府とすれば徳川縁戚の猛将を備後に置き、西国に睨みを利かせるためであったでしょう。
福山に入った勝成は、備後流浪時代に世話になった三村親成が没落していたのを召し抱え、高禄で家老職につけています。備後時代の人脈が福山藩統治に活かされ、家中もよくまとまっていました。岡山藩主の池田光政は勝成を「良将の中の良将」と称えています。
寛永15年(1638)、75歳の勝成は幕府からの要請を受けて、島原の乱鎮圧に息子の勝俊、孫の勝貞とともに6000の軍勢で向かいました。勝成が到着したその日に軍議が開かれ、勝成は主将の松平信綱に総攻撃を勧めます。3日後からの総攻撃で水野勢は原城本丸を攻略しました。
翌寛永16年(1639)、隠居して家督を息子に譲った勝成は、悠々自適の生活を送り、慶安4年(1651)、没します。88歳の大往生でした。
更新:11月24日 00:05