2018年03月30日 公開
2023年03月31日 更新
戦国時代のおしどり夫婦といえば、豊臣秀吉とおね、前田利家とまつ、山内一豊と千代などが有名ですが、鍋島直茂と陽泰院もなかなかのものだったようです。
直茂の妻・陽泰院の名は彦鶴(ひこつる)、後に藤(ふじ)。家臣、領民からは国母と慕われました。
直茂と陽泰院は、ともに離婚歴がある、いわば「バツイチ」同士でした。直茂は前妻の父が敵方に内応したため、やむなく妻を離縁。一方の陽泰院は前夫が戦死したためです。
二人の出会いといわれるエピソードがあります。ある時、主君の龍造寺隆信の供をして出陣した直茂は、途中、昼食に立ち寄った石井常延の屋敷で鰯の丸焼きを供されました。ところが兵士の数が多いため、鰯を焼くのが追いつきません。下働きの女子衆が慌てふためくのを見た陽泰院は、かまどの下の火を掻き出し、その上に籠の上の鰯をぶちまけて、大うちわで煽ぎ立てました。そして焼き上がった鰯を箕(み、穀物を入れて上下に揺り動かして、不要物を吹き飛ばす農具)に移し、付着している炭を取り除いて差し出したのです。その一部始終を見ていた直茂が、陽泰院の機転の利いた振る舞いに一目惚れをしたといいます。
その後、直茂は人目をしのんで陽泰院のもとへ通い始め、ある時は盗人と間違えられて追いかけられ、塀を飛び越えて逃げようとした時に刀で斬りつけられ、足の裏にけがをしたとか。真偽のほどはわかりませんが、直茂がいかに陽泰院に夢中であったかを語る逸話といえるでしょう。ちなみに二人が結婚したのは、直茂32歳、陽泰院29歳。現代であればごく普通ですが、当時としてはもちろんかなりの晩婚ということになります。
直茂の前妻は直茂に未練があったらしく、陽泰院に対してたびたび「後妻(うわなり)打ち」に出たといいます。「後妻打ち」とは、室町時代頃から伝わる習俗で、離別された先妻が後妻を妬んで、親戚などを連れて襲撃するものでした。日時や携帯する武器は、あらかじめ先方に伝えておきます。武器はすりこぎ、ほうき、はたき、鍋蓋などでした。そして後妻もそれをうけて、相手に見合う戦力で応戦するのです。ある意味、フェアな女同士の戦いで、罵り合い、叩き合って合戦が派手になった頃を見計らって、仲裁役が間に入り、終了となります。
陽泰院は直茂の前妻からたびたび後妻打ちを仕掛けられますが、その応戦ぶりではなく、応対ぶりが実に巧みで見事であったとか。なにしろ頭に血を上らせて押しかけてくる相手に対し、ていねいにあしらい、うまく宥めて、お帰り頂いたというのです。口先だけでできるものではなく、やはり機転のよさと、相手の心をつかむ術を心得ていたことを窺わせるでしょう。その後も直茂は戦功を重ね、主君の右腕となっていきますが、そこには陽泰院の内助の功が大いにあったと考えてもよいでしょう。
ところで、主君・龍造寺隆信の母親「慶誾尼(けいぎんに)」は、直茂の父親の後妻となっていました。ですから隆信と直茂は義兄弟ということになります。隆信が沖田畷の戦いでの討死した後、その子の政家が家督を継ぎますが、豊臣秀吉に睨まれ、隠居することになります。しかし、政家の子・高房はまだ幼少でした。この時、家督は直茂に譲るよう提言したのが、慶誾尼です。秀吉が直茂を高く評価していることを知った慶誾尼が、龍造寺を守るために下した決断といわれます。しかし、女傑の慶誾尼がそれほど直茂を見込んだのも、実は妻の陽泰院の人物を見て、こうした妻を迎えている男であればと、判断したのではないかともいわれます。
慶長12年(1607)、直茂は70歳で嫡男・勝茂にすべてを譲り渡して隠居し、陽泰院と仲睦まじく暮らしました。直茂は何事も「かか」と呼んで相談したといわれます。 直茂は81歳で没しますが、陽泰院との夫婦生活は49年の長きに及んでいました。
更新:12月10日 00:05