2018年03月15日 公開
2019年02月27日 更新
慶応4年3月15日(1868年4月7日)、川路聖謨が割腹のうえ、拳銃で自殺しました。川路は有能な幕臣で、外国問題の第一線で活躍した人物です。ロシア使節プチャーチンの応対をしたことでも知られます。
川路は享和元年(1801)、豊後日田の代官所構内の小屋で生まれました。幼名、弥吉。 父親は一介の庶民でしたが、代官所で働いた後、江戸で幕臣の「御徒(おかち)」の株を取得、幕臣内藤家に入った後、同じく下級幕臣の川路家の養子となります。
文化14年(1817)、17歳の時に幕府勘定所の登用試験に合格した川路は、最下級の役職から出発してめきめきと頭角を現わし、昇進を重ねて将軍のお目見えがかなう旗本の御勘定となりました。さらに勘定組頭格に昇進後、天保6年(1835)、35歳の時に、但馬出石藩の仙石騒動の予審を担当、難事件を解決に導いたことを評価されて、勘定吟味役に任ぜられます。さらに佐渡奉行、奈良奉行など要職を経て、嘉永5年(1852)に52歳で勘定奉行に任ぜられるとともに、海防掛も命ぜられて、国際条約交渉の第一線に立ちました。 最下級の役人から累進して、勘定所の長官である3000石格の勘定奉行に至ったのを見ても、川路がいかに優秀であったかが窺えますが、またそうした昇進を可能とする柔軟な人事システムを幕府が用いていたことも注目に値するでしょう。
嘉永6年(1853)のペリー来航の翌月、長崎にロシア使節プチャーチンが来航して開国通商を求めると、幕府は条約交渉の全権代表として、川路を抜擢しました。プチャーチンは川路と交渉して、その人柄を「ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性をそなえた人物」と称賛しています。川路に親しみを覚えたロシア人一行の一人が、川路の肖像画を描こうとすると、川路は「私のような醜男を一般的な日本人の顔だと思われては困る」と答えて、一行を爆笑させる一幕もありました。
翌年、伊豆下田において、日本側全権川路とプチャーチンとの間で、日露和親条約が結ばれます。この条約には両国の国境画定という問題があり、エトロフ島とウルップ島との間を国境と定めました。この締結日が1855年2月7日であったことにちなみ、今も2月7日が「北方領土の日」とされています。一見、和気あいあいと交渉し条約締結にこぎつけたように見えますが、しかし、少しでも対応を誤れば、列強から軍事攻撃を受けかねない危機的状況の中での川路の交渉でした。
そんな川路の張りつめた精神状態は、日々の暮らしにも現われています。彼は午前2時には起床して書き物、読書をし、空が白むと刀と槍の素振りを2000回ずつ、その後、来客の話を聞いてから10時に登城。17時まで城に詰めます。帰宅後、別の来客と夕食をともにして話を聞き、22時頃に応対を終えると、再び読書と書き物をし、0時に就寝。つまり睡眠時間はわずか2時間です。それでも気が張っていたので、続けることができたと述懐しています。
その後も川路は開明的幕臣として活躍が期待されましたが、将軍継嗣問題において一橋派に属したため、井伊大老に睨まれて、安政の大獄に連座。安政5年(1858)に閑職に左遷され、翌年、隠居差控えを命じられました。 文久3年(1863)、再び外国奉行並びに勘定奉行を拝命しますが、半年で辞任。直後に中風で倒れて、幕末の政局に関わることはありませんでした。
慶応4年(1868)3月15日、江戸城開城を目前にして、川路は居宅にて自決します。体の自由が利かない中、武士の作法にのっとり切腹した後、拳銃で自らとどめを刺しました。最下級の身分から勘定奉行にまで引き上げてくれた幕府に対し、その恩義に報いるべく、殉じる道を選んだのでしょう。享年68。
昇進を重ねた川路ですが、自分が、自分が、というタイプではなかったように感じます。 奈良奉行時代、興福寺周辺に桜と楓の植樹を呼びかけ、貧民救済に尽力するなど、地元民を大切にしました。今もその顕彰碑が建てられ、慕われています。持てる力をすべて発揮し、節に殉じた川路。当たり前のこと、やるべきことを当たり前にやっただけというような、恬淡とした人柄が感じられるような気がします。
天津神に 背くもよかり 蕨つみ 飢えにし人の 昔思へは
川路の辞世です。
更新:12月10日 00:05