2018年02月06日 公開
2023年03月09日 更新
護国寺観音堂(東京都文京区)
天和元年2月7日(1681年3月26日)、5代将軍徳川綱吉が江戸に護国寺の建立を命じました。母親・桂昌院の要望に応えたものといわれます。今回は護持院との関わりとともに紹介してみましょう。
桂昌院は綱吉懐妊中より深く帰依していた上野国の碓井八幡宮別当・亮賢僧正のために、江戸市中に寺を建立したいと願います。そこで綱吉は幕府の高田薬園の地を与えました。これが護国寺のはじまりです。綱吉にすれば、母親への孝行心の表われだったのでしょう。
堂宇は翌天和2年に完成し、本尊は桂昌院の念持仏・天然虎伯如意輪観世音菩薩像。念持仏とは、普段から身につけたり、私室に安置して信仰している仏像のことです。天和3年(1683)、桂昌院は初めて護国寺を参詣し、以後も護国寺は幕府からの篤い崇敬を受けました。
貞享4年(1687)、亮賢僧正が没すると、高弟・賢広僧正が継いで二世となります。同年、綱吉によって殺生を禁ずる、いわゆる「生類憐れみの令」が初めて出されました。これは綱吉の命で筑波山知足院の住職となった僧・隆光の勧めがあったといわれます。
翌元禄元年(1688)、綱吉の後押しで隆光は、知足院を神田橋外(現在の神田錦町)に移し、護持院と改称して、その開山となりました。寺領1500石。護持院は上野寛永寺と並び称されるほどの巨刹でした。桂昌院も隆光に深く帰依したといわれます。あるいは桂昌院は、没した護国寺の亮賢僧正の代わりとして隆光を頼ったのでしょうか。
元禄7年(1694)、将軍綱吉は母・桂昌院とともに護国寺に参詣、寺領はそれまでの倍の600石に加増されました。一方、元禄8年(1695)、護持院の隆光は大僧正となっています。新義真言宗の僧では初めてのことでした。
同年、護国寺では快意が三世を継いでいます。綱吉は快意にも深く帰依し、元禄10年(1697)正月、護国寺に観音堂新営の幕命を下し、約半年で大造営を完成、同年8月落慶供養の式典が営まれました。本尊は堀田正虎(綱吉を擁立した大老・堀田正俊の次男)の母・栄隆尼(稲葉正則の娘)が寄附した如意輪観世音菩薩像です。
宝永4年(1707)、隆光が59歳で隠居すると、護持院の住職に護国寺の快意が就任。しかしこうした綱吉や桂昌院の必要以上の寺院への肩入れは、幕府財政の大幅な悪化につながり、幕閣からすれば、ありがたいことではありませんでした。宝永6年(1709)、綱吉が没すると生類憐れみの令は直ちに廃止されるとともに、隆光は江戸城登城を禁じられ、失脚。さらに8年後の享保2年(1717)、護寺院は火事で類焼し、焼失します。
その後、幕命により護寺院は護国寺境内に移されました。 以後、観音堂を護国寺、本坊を護持院とし、護寺院の住職が護国寺を兼ね、両寺領合わせて2700石をもって、幕府の祈願寺を務めることになります。
維新後、明治、大正の火災で護国寺も多くの建物を失いますが、観音堂は元禄以来の姿を保っています。また護持院の跡地は護持院ヶ原と呼ばれて江戸市民の公園となり、弘化3年(1846)には、「護持院ヶ原の仇討ち」の舞台となりました。
更新:11月22日 00:05