2018年02月06日 公開
2019年01月24日 更新
天文6年2月6日(1537年3月17日)、豊臣秀吉が生まれました。日本人なら知らぬ者はない、農民出身で足軽から天下人、関白にまで上りつめた人物です。墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、備中高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城など、天下人に至る功名話は、どれもこれもおなじみです。
秀吉(木下藤吉郎)は尾張国中村(現在の名古屋市中村区)で、木下弥右衛門となか(のちの大政所)の子として生まれました。教養など身につける暇もなかったであろう藤吉郎が、己の才覚と「人たらし」とも呼ばれる人心掌握術で、織田家中でめきめきと頭角を現わしたことはよく知られますが、その背後に彼を支援する者たちがいたことを指摘する人もいます。
たとえば秀吉は、蜂須賀小六や前野長康ら川並衆のバックアップを得ていますが、そもそも秀吉の父・木下弥右衛門は織田氏ではなく蜂須賀氏に仕えていたともいわれ、純然たる農民ではなかった可能性があります。そしてそのために秀吉はいわゆる山の民といわれる人々の協力を得ることができ、敵地の情報収集に大いに役立ったというのです。真偽のほどはわかりませんが、確かに秀吉が得意とした城攻めは、敵地の綿密な情報収集なしには行なえないものですし、本能寺の変直後の中国尾大返しも、偶然の産物とは思えません。
一方で、天下の逸材ともいうべき竹中半兵衛や黒田官兵衛らを軍師とできたのも大きいでしょう。また、信長の命令を聞かずに北陸から勝手に戦線離脱し、別の活躍の舞台を獲得する計算高さも見逃せません。
秀吉の凄みを感じるのは、山崎で明智光秀を破った後、信長の息子たちがいるにもかかわらず、それらを見下して天下人になってしまう点でしょうか。乱世にものをいうのは血筋ではなく、実力であるということがよくわかります。ちなみに秀吉没後、徳川家康もまったく同じことをしています。
秀吉の魅力は天性の明るさでしょう。晩年の秀次一族の殺戮などはいただけませんが、本来は極力無用な血が流されることを嫌った人物だったと思われます。
露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢
慶長3年8月18日(1598年9月18日)、太閤秀吉没。大阪では今も「太閤さん」は英雄です。
更新:11月22日 00:05