2018年02月04日 公開
2019年01月24日 更新
嘉永6年2月4日(1853年3月13日)、金子堅太郎が生まれました。
金子堅太郎は筑前福岡藩の出身で幼名は徳太郎。明治維新後、アメリカに留学してハーバード大学のロー・スクールで法律を学びます。その後、伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に関わったことで知られていますが、金子はもう一つ、日露戦争の際に重要な働きをしています。
明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、金子は枢密院議長の伊藤博文より、アメリカに渡って学校の先輩で旧知のセオドア・ルーズベルト大統領に接触し、日本に有利な広報外交を行なうことを要請されました。困難な任務に金子が逡巡すると伊藤は「ロシア軍が本土に攻め寄せたら、私も長州時代のように銃を手に戦う覚悟だ」と激励し、金子も肚を決めたといわれます。
当時は黄色人種が白人に災いをもたらすという「黄禍論」がアメリカではびこっていましたが、ニューヨークに入った金子は得意の英語で「私たちは領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っているのです」と語り、喝采を浴びました。
さらにボストンの母校ハーバードでの講演では、仁川沖の海戦で日本海軍がロシア兵の負傷者の救出にあたった事例をひき、一方で在留邦人を虐待しているロシアを指摘して、「果たして日本人とロシア人、どちらがキリスト教主義に適っているか」と問いかけました。
講演内容は新聞や雑誌で取り上げられて大反響を呼び、日露戦争におけるアメリカの親日的な態度を引き出すことに成功。ルーズベルトは日露戦争の講和に力を尽くすことになります。
日露戦争後は、枢密顧問官等をつとめます。晩年は臨時帝室編修局総裁、維新史料編纂会総裁として、史料編纂に尽力しました。昭和17年(1942)5月16日没。
隠密の民間大使ともいうべき金子の活躍を、日本人としては、ぜひ知っておきたいところです。
更新:11月22日 00:05