2018年01月25日 公開
2018年12月25日 更新
姫路城
慶長18年1月25日(1613年3月16日)、池田輝政が没しました。池田恒興の息子で、関ケ原合戦後、姫路城を大規模に改修したことで知られます。
池田輝政は永禄7年(1564)、織田信長の家臣・池田恒興の次男として清洲に生まれました。幼名、古新(こしん)。通称、三左衛門。諱は最初、照政と書いています。
天正6年(1578)、15歳の時の、荒木村重が拠る摂津有岡城攻めが初陣と思われます。この合戦では父・恒興、兄・元助とともに、倉橋の砦に詰めました。 翌年、有岡城は開城しますが、荒木村重は花隈城に逃げ込んだため、池田親子はその付城に入り、引き続き戦います。天正8年(1580)閏3月、城兵の攻撃を兄と協力して撃退し、この功により信長から名馬を賜りました。同年7月に花隈城が開城すると、父・恒興は摂津衆を束ねることになります。
本能寺の変の際は父とともに摂津におり、おそらく羽柴秀吉に合流しての山崎の合戦にも参加したことでしょう。以後、秀吉に仕えました。天正11年(1583)、父・恒興に美濃の大半が与えられ大垣城主となると、輝政は池尻城主となります。翌天正12年(1564)の小牧・長久手の戦いに父・兄とともに参戦。長久手の合戦で徳川家康軍に父と兄を討たれたため、輝政が池田の家督を継ぐことになりました。美濃大垣城主、次いで岐阜城主となり、紀州雑賀攻め、越中の佐々成政攻め、さらに九州征伐にも参加。秀吉の主要な合戦のほとんどに従軍しています。この頃、羽柴の姓と侍従の官職を与えられ、「羽柴岐阜侍従」と称されました。
天正18年(1590)の小田原征伐、及び陸奥平定後、岐阜から三河吉田城に移り、15万2000石を領します。朝鮮出兵では日本に留まり、兵糧米輸送などの兵站任務に携わりました。また文禄3年(1594)、秀吉の仲介で家康の娘・督姫(北条氏直後室)を娶ります。督姫を娶る際、徳川屋敷を訪れた輝政は、長久手合戦において父を討った永井直勝を呼び出し、恒興の最期の様子を尋ねました。その際、永井が徳川家中で5000石であると聞き、「父の首は5000石の値か」と嘆息、家康に頼んで永井を1万石にしたといいます。
慶長5年(1600)の関ケ原の折には東軍に所属、前哨戦で福島正則とともに岐阜城攻略を競いました。岐阜城はかつて輝政の居城であり、正則よりもよく知っていたため一番乗りを果たしますが、その功名は惜しげもなく正則に与えたといいます。
関ケ原合戦後、輝政は播磨国姫路城主52万石を与えられました。「沈毅、寡欲にして大略あり」(『名将言行録』)といわれた輝政の人柄を信頼した家康が、西国や九州の諸大名へ睨みを利かせるためでした。また家康の孫にあたる輝政の次男忠継に備前28万石、3男忠雄には淡路6万石が与えられ、他に検地で増えた分を加えると、池田一族の総石高は92万石にも上り、「姫路宰相100万石」などとも称されます。
慶長6年(1601)、姫路城の改修にとりかかった輝政は、重臣たちの「近傍に山があってよろしくない。別の場所に築城すべし」という声に対し、「この城に籠城するなど、小さいことを考えるな。戦は大地に打って出て勝利するものぞ」と退けました(『名将言行録』)。
もし輝政が重臣たちの意見を容れていたら、現在の世界遺産・壮麗な白鷺城こと姫路城を私たちが目にすることはできなかったのかもしれません。 慶長18年、輝政は姫路城内で没しました。享年50。
更新:11月22日 00:05