2018年01月14日 公開
2018年12月25日 更新
岩倉具視
明治7年(1874)1月14日、「赤坂喰違の変」が起こりました。右大臣岩倉具視の暗殺未遂事件として知られます。
ことは前年の征韓(遣韓)論争に遡ります。明治維新後、明治政府は李氏朝鮮に対して、新政府発足の通告と国交を求める交渉を行ないますが、外交文書がそれまでの徳川幕府の書式と異なることを理由に、朝鮮側はこれを拒否します。明治政府はその後何度も使者を派遣して国交樹立を模索しますが、朝鮮側は鎖国攘夷を掲げ、日本の使者を蔑みました。ここに至り明治6年(1873)6月、閣議で朝鮮問題が取り上げられ、参議の板垣退助は居留民保護を理由に派兵を主張。一方、参議の西郷隆盛は派兵に反対し、自分が開国を勧める遣韓大使として赴くことを主張、後藤象二郎や江藤新平らもこれに賛成しました。 そして8月には西郷の派遣を明治政府が正式に決定するに至りますが、「時期尚早」とこれに待ったをかけたのが、9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らだったのです。
岩倉使節団が欧米を歴訪している間、西郷らは留守を預かる「留守政府」ではありましたが、れっきとした政府の決定を、帰国組が覆そうとすることに対し、西郷らは納得できません。対立する両者の間に立った三条実美は心労で病に倒れ、土壇場のところで岩倉が明治天皇に「私的意見書」を呈する謀略が功を奏し、10月に西郷の遣韓は中止が決定されました。これを受けて、遣韓派であった西郷、板垣、後藤、江藤、副島種臣の5人の参議が辞表を提出、下野します。さらに西郷に近い軍人や官僚、板垣・後藤に近い軍人らも大挙して官を辞しました。いわゆる「明治6年の政変」です。
そしてこれを機に、政府への不満が不平士族と結びつき、各地の士族の反乱や自由民権運動につながっていきました。そうした中で起きた「赤坂喰違の変」は、不平士族が起こす反乱の前哨戦のような事件です。
翌明治7年1月14日夜、公務を終えて赤坂の仮皇居を退出した岩倉具視の乗る馬車が赤坂の喰違坂に差し掛かった時、襲撃を受けました。襲撃者は全員が土佐出身で、武市熊吉・喜久馬兄弟をはじめとする9人。いずれも元軍人か官僚です。彼らは西郷や板垣に共鳴する者で、西郷らの下野は岩倉や大久保の陰謀によるものと、強い怨みを抱いていました。馬車を襲われた岩倉は、眉の下と腰に負傷はしたものの、四谷濠に転落したことで襲撃者たちが岩倉を見失い、辛うじて助かります。岩倉遭難の報を受けた大久保は、不平士族による襲撃事件を重く見て、直ちに警視庁大警視・川路利良に犯人逮捕を命じました。そして事件から3日後、9人の襲撃者は全員が捕縛され、7月に斬罪に処されます。一方、命を落とさずに済んだ岩倉ですが、負傷よりも、襲撃を受けたことでの精神的ダメージが大きく、公務に復帰したのは一月以上経った2月23日でした。その間にも、2月の初めには佐賀の乱が勃発しており、岩倉襲撃事件が不平士族の反乱の嚆矢であったことがわかるでしょう。
9人の墓碑は東京都中野区の宝泉寺にありますが、碑文は土佐の谷干城の筆によるもので、墓碑の背面には事件の経緯が刻まれ、西郷隆盛や板垣退助らの名前も確認できます。当時から、単なる過激派のテロ未遂事件とは見られていなかったのかもしれません。不平士族の反乱は明治10年(1877)の西南戦争まで続き、大久保利通を中心とする政府はそれらすべてを鎮圧したものの、明治11年(1878)には紀尾井坂で大久保が不平士族に暗殺されました。岩倉が病没するのはそれから5年後の明治16年(1883)のことです。享年59。
更新:11月22日 00:05