2018年01月09日 公開
2022年07月05日 更新
明治4年1月9日(1871年2月27日)、広沢真臣が暗殺されました。幕末の長州藩士で、尊攘派として活躍した人物です。
広沢真臣は天保4年12月29日(1834年2月7日)、長州藩士・柏村半右衛門安利の4男として萩城下に生まれました。幼名、季之進。弘化元年(1844)、12歳の時に同じ家中の波多野直忠の養子となり、波多野家を継いで波多野金吾と称します。藩校・明倫館に学んだ真臣は、文学と槍術に非凡な才能を示しました。19歳で御前警備を命ぜられ、安政6年(1859)には藩の軍制改革に加わり、尊王攘夷派として活動します。また藩主・毛利敬親を警護して江戸に赴くなど、藩内での信用篤い人物でした。
元治元年(1864)、禁門の変の後、長州藩が米英仏蘭の四国連合艦隊の報復攻撃を受けた際は、真臣は高杉晋作を助けて和平交渉にあたりました。翌慶応元年(1865)、藩命により広沢藤右衛門と改名、さらに広沢兵助と改名します。慶応2年(1866)8月末の第二次長州征伐(四境戦争)の講和交渉では、幕臣の勝海舟と安芸宮島で会談、さらに長州藩の討幕派の代表という評価を得て、慶応3年(1867)には薩摩の大久保利通(一蔵)とともに、岩倉具視から討幕の密勅を受けています。
維新後は海陸軍務掛、内国事務掛、参議などを歴任。広沢は木戸孝允(桂小五郎)と並ぶ長州出身の参議の代表格となりました。明治政府では長州閥、薩摩閥が存在したことがよく知られますが、同じ長州出身者も必ずしも一枚岩ではなく、政策をめぐって対立することもありました。明治3年(1870)頃、政府内では封建制の解体と近代化の促進が大きなテーマでしたが、それを漸進すべきか、急進すべきかで政府内は割れます。たとえば長州出身者でも、伊藤博文、井上馨らの支持する木戸孝允は急進派、一方、広沢真臣、前原一誠らは漸進派でした。
そして明治4年(1871)1月9日未明、真臣は麹町富士見町の自宅で就寝中に、押し入ってきた何者かに暗殺されます。享年38。妾が同衾していたことで世間にスキャンダラスな興味を巻き起こしましたが、広沢が15ヵ所も斬られて絶命したのに対し、妾はわずかな傷を負っただけでした。妾が生き残ったため、事件当時の状況や下手人の姿はすぐに弾正台(現在の検察庁に近い存在)に伝えられました。広沢暗殺の報告を受けた明治天皇は、下手人の早期逮捕を命じる詔勅を発します。それだけ真臣の存在が大きかったことが窺えるでしょう。
ところが、結果的にこの事件は迷宮入りしてしまいます。捜査の目は最初、反政府運動者に向けられました。この頃、政府高官の暗殺が続いており、真臣が反政府陰謀の鎮圧に尽力していたことから、狙われた可能性があるとしたのです。ところが反政府運動者からは容疑者は割り出せません。捜査に行き詰まった弾正台が次に疑ったのは、生き残った妾の証言の信憑性でした。妾は拷問による追及の結果、広沢家の使用人と密通していたことを認め、使用人も自白したため、事件はこの二人の共謀による痴情事件で落着するかと思われたのです。ところが司法省内で行なわれた裁判で、使用人は途中から自白を翻し、動機すらも明確でなくなり、裁判官は使用人と妾を無罪とします。捜査は振り出しに戻り、内部の犯行か外部の者か、プロの暗殺者の犯行か素人のものか、わからなくなってしまいました。
しかし一つ、注目すべき出来事があります。それは真臣が暗殺されたのと同じ夜、長州萩の実家にいた前原一誠が、家の廊下を歩いていた際、外から何者かに狙撃されているのです。この一件と真臣暗殺について前原は、「木戸の差し金である」と考えました。当時、真臣・前原と政府内で対立していた木戸孝允が暗殺命令を発した、と。ただ一方で、木戸は終生、真臣と親しく、暗殺事件についても周囲が迷宮入りと考える中、最後まで捜査を督促し続けたのは木戸でした。事件の知らせを受けた時の木戸の日記にも、動揺と悲しみが率直に表われており、木戸であるとは考えられないという見方もあります。
この暗殺が反政府主義者や物盗り、あるいは痴情のもつれなどではなく、背後には政府高官の思惑があったという噂は、当時から根強いものがありました。そうした中で木戸とは別に、黒幕と疑われる人物がいます。薩摩の大久保利通です。確かに事件当夜、木戸とともに関西にいた大久保は、暗殺を知っても何の感想も述べていません。では仮に大久保が黒幕だとしたら、どんな動機が考えられるのでしょうか。一説には岩倉との外遊を控えた大久保は、自分が不在の間に政府の主導権を完全に真臣が掌握してしまうのではないかと危惧したというものがあります。真臣の手腕を怖れたのというです。また、真臣の妾と使用人に拷問をかけて取り調べたのは、旧薩摩藩士の警視・安藤則命でした。安藤は取り調べ中、頻繁に大久保を訪ねて状況を報告していたといわれます。つまり大久保は、妾と使用人を犯人に仕立てて、事件を落着させようとした疑いがあるというのです。
しかし大久保は西南戦争後、「自分は維新以来、幾多の艱難辛苦に遭ってきたが、いまだかつて暗殺という如き卑劣な手段に訴えようという邪念を抱いたことは、一度もない。天地神明余の心を知る」と明言しており、この言葉を信じれば、大久保ではないことになります。果たして、広沢真臣暗殺の真相とは何であったのか。いまだに謎とされています。
更新:11月22日 00:05