2017年12月26日 公開
2018年12月03日 更新
元文元年12月26日(1736年1月26日)、上村権兵衛が没しました。「種まき権兵衛」として有名な権兵衛さん。民話の人と思われがちですが、江戸時代の実在の人物です。「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」は、蒔いたそばから種をカラスに食べられてしまうことから、努力が実らないこと、徒労の意味で使われます。しかし、本来の権兵衛の話は、愚かしさを伝えるものではありません。
権兵衛の父親は上村兵部という武士でしたが、武士をやめ、大和国から紀伊国熊野を経て、便の山(現在の三重県北牟婁郡紀北町)に腰をすえ、寺子屋の師匠となります。そして村の娘と結婚して生まれたのが権兵衛でした。生年はわかりません。元禄か宝永の頃でしょうか。
父の望みに従い、権兵衛は農民として生きます。母親とともに田畑を耕し、また父親から教えられた鉄砲では非凡な才能を発揮しました。作物を荒らす獣を撃って村人から喜ばれた権兵衛は、次第に猟が面白くなり、田畑を放って山深く猟に入るようになります。父親の兵部は案じて、「田畑を荒らす獣のみを撃つように」と言いますが、権兵衛は猟を続け、やがてその鉄砲の腕は近隣にまで知られるようになりました。
するとその噂を聞いた紀州藩主・徳川宗直(8代将軍吉宗の従兄弟)が巡見の折、権兵衛に試し撃ちをさせます。この時、権兵衛は山の斜面を転がる樽に鉄砲を撃ち、弾丸は樽を貫通しました。再び同じ樽を転がして二発目を撃つと、弾丸は一発目の穴に寸分違わず、反対側を貫通する際に穴が少しずれて開いたため、命中したことがわかったといいます。驚異的な腕でした。宗直は大いに賞賛し、褒美を取らせると言うと、権兵衛は「褒美は何もいりません。その代わり、今年の村の年貢を免除してください」と頼みます。宗直は難しい顔をしていましたが、やがてにっこり笑い、村人たちに「皆、権兵衛に感謝せい。今年は年貢免除じゃ」と言うと、村人は大歓声を上げました。
しかし、父親の兵部が亡くなると、父親の言いつけを守らず猟に熱中して、荒地を開墾していなかったことに気づきます。「私は親不孝をしてしまった」。権兵衛は気持ちを新たに、それからは田畑に向かうようになりました。 秋の収穫の後、稲を刈った後の田を畑に作り変えて、麦の種を蒔く権兵衛。ところが権兵衛が一列に種を蒔くと、カラスが下りてきて食べてしまいます。まだ作業に慣れず、へっぴり腰の権兵衛の姿を見た村人は、「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる 三度に一度は追わずばなるまい」と囃しました。ところが当の権兵衛は一向に気にせず、むしろカラスがついばむのを優しい目で見ていました。村人たちはカラスを追わない権兵衛を不思議そうに眺め、やがて権兵衛は父を亡くした悲しみで、気が変になったのではと噂します。
そしてこの年、村を飢饉が襲いました。村人の畑では十分な麦が取れませんでしたが、なぜか権兵衛の畑は収穫できたのです。それは村人がカラスに食われまいと気にする余り、種を蒔ききれていなかったのに対し、権兵衛はカラスが食べる分も含めて余計に蒔いていたからでした。 権兵衛は自分の収穫を惜しみなく村の人にも分けたので、村人は囃したてたことを反省し、権兵衛の慈悲の心に深く感謝したといいます。
これでおしまいでしたら、めでたし、めでたしなのですが、権兵衛にはその後の話があります。熊野に通じる馬越峠の天狗倉山の岩窟に、数百年も生きている大蛇がいて、旅人を襲っていました。そこで鉄砲の名手の権兵衛は、退治を依頼されたのです。権兵衛は鉄を溶かして弾丸を作ると、鹿笛を用意して一人で岩窟を目指します。岩窟に近づき、鹿笛を吹くと、はたして大蛇が現われました。権兵衛の姿を見つけた大蛇が近づき、鎌首をもたげて権兵衛に襲いかかろうとしたその時、大きく開けた口の中に権兵衛は鉄砲を撃ち込みます。しかし、大蛇は一発では死なず、のたうっています。権兵衛は再度弾丸を込めて、とどめを刺そうと近寄ると、大蛇は権兵衛に口から毒液を浴びせました。それでも権兵衛はあわてず、とどめを二発撃ち、蛇は崖から落ちていきました。しかし頭から毒を浴びた権兵衛もふらふらになやって山を下りると、麓で倒れ、帰らぬ人となったのです。
大蛇の話はあまりにも昔話めいていますが、蛇は何かの暗喩で、権兵衛の非業の死を伝えようとしたのかもしれません。元文元年12月26日に没した権兵衛は、便の山の宝泉寺に葬られたといいます。地元では今も権兵衛は慕われています。
更新:11月22日 00:05