2018年04月09日 公開
2019年03月27日 更新
大正3年(1914)4月9日、昭憲皇太后が崩御されました。明治天皇の皇后です。
昭憲皇太后は嘉永2年(1849)、左大臣一条忠香の三女に生まれました。幼名、勝子(まさこ)、通称、富貴君、富美君、寿栄君。慶応3年(1867)6月、19歳で明治天皇の女御に治定。明治元年(1868)12月26日、美子(はるこ) と改名し、28日に入内して女御宣下、即日皇后に冊立されました。幼少より学問を好み、書道、和歌に秀で、生涯で3万首を超える御歌を詠んで、その一部が『昭憲皇太后御集』として伝わっています。
御歌の中でも、明治9年(1876)に東京女子高等師範学校に下賜した次の歌がよく知られています。
「磨かずば玉も鏡も何かせむ 学びの道もかくこそあれ」(玉も鏡も磨かなければ何にもならない。学問もそういうもの)
また華族女学校の教育方針を詠んだ「金剛石」「水は器」なども、尋常小学校唱歌として多くの人に愛されました。今も学習院中等科・高等科で歌い継がれているといいます。
さらに津田梅子らの女子留学生の派遣にも大きく関わり、女子教育の支援に熱心に取り組まれました。一方、日本赤十字社の設立と経営にも尽くされ、赤十字国際委員会に寄付された「昭憲皇太后基金(Empress Shoken Fund)」は、今でも世界各国の赤十字助成のために活用されています。今日までその恩恵に浴した国は、延べ500ヶ国に及ぶといいます。他にも慈恵会への支援や、福田会育児院、岡山孤児院などの慈善養護事業にも手を差しのべられました。
自ら国政に関与されることはありませんでしたが、明治天皇とともに陸軍演習に数回行啓され、憲法発布式にも参列。公の場では終始笑顔で振る舞われ、接する人を感激させることもしばしばでした。
「朝ごとに向かう鏡のくもりなく あらまほしきは心なりけり」
御歌からも、心を律し、清く正しくあろうとされる研鑽が感じられ、お人柄がしのばれます。
明治45年(1912)、明治天皇が崩御されると、皇太子・嘉仁親王が践祚するとともに、皇太后となられました。 その2年後の大正3年(1914)4月11日、沼津御用邸で崩御されました。追号は「昭憲皇太后」。昭憲皇太后のご活躍は、その後の皇后の範となったといわれています。
更新:12月10日 00:05