設楽原古戦場
戦国時代に興味を持っている人なら、古戦場を歩いてみることをお薦めします。浜松城主だった徳川家康が、武田信玄に挑んだ三方原の戦いは、浜名湖の東岸にある台地で行われました。井伊谷から浜松方面に南下した場所にあります。
すでに宅地化が進んでいる場所なので、当時の姿を想像するのは難しいのですが、三方原町の霊園の駐車場の一角に、「三方原古戦場の碑」があります。揮毫しているのは、徳川宗家第18代当主の徳川恒孝氏なので、最近建てられたものですが、かなり広い台地だったことがわかります。
この三方原から浜松城への道は、長い下り坂です。家康は、浜松城を素通りしようとしている武田軍を、上り坂を上がって追いかけました。すると武田軍は、突然反転して足軽の石礫で徳川軍を攻撃します。台地を上っていく徳川軍にとってはたまったものではなかったでしょう。武田軍に散々に攻撃された徳川軍は大損害を受け、家康は馬を駆って浜松城に逃げ帰ります。
現地に行って地形を見れば、こうした戦いの様子もよくわかります。意外だったのは、三方原と浜松城の距離があまり遠くないことでした。なぜ武田軍は、三方原の戦いの後、浜松城を攻撃しなかったのか、疑問に思いました。こうした疑問を手がかりに、この時の遠征の信玄の意図を推測することもできるかもしれません。
古戦場では、織田信長が3000挺(1000挺とも)の鉄砲を巧みに使って武田勝頼の誇る騎馬武者たちを撃破した長篠の戦いの設楽原古戦場も興味深い場所です。
この戦いは、武田軍が徳川家康方の長篠城を攻め、救援に向かった織田・徳川連合軍が近くの設楽原(『信長公記』では「あるみ原」)で向かってくる武田軍を打ち破ったため、長篠設楽原の戦いとも呼びます。周辺には設楽原歴史資料館があり、戦いの様子が展示されていますし、長篠城址はなかなか良い感じで残っており、長篠城址史跡保存館もあります。
織田・徳川連合軍と武田軍が激突した設楽原には、信長が築かせた馬防柵が一部再現されています。現地を見ると、ずいぶん認識が変わります。「設楽原」という名前から想像するよりもはるかに狭く、起伏に富んでいるのです。そして馬防柵の10メートルほど手前には、連吾川という小さな川があります。鉄砲の射撃が間断なく続く中、馬で馬防柵までたどりつくのはけっこう大変だったはずです。勝頼は、前日、設楽原が見渡せる才ノ神に本陣を置き、馬防柵を見て、敵は「一段逼迫之躰」(萎縮している)と書状に書いています。
しかもこの戦いは、午前11時頃の武田軍の総攻撃に始まり、午後2時頃まで3時間にわたって行われているので、武田の騎馬武者たちが、信長が築いた馬防柵を打ち破るため、戦いにかなり工夫をこらしていたこともわかります。無防備に騎馬で突撃して、ばたばたと撃ち倒されたわけではなさそうです。
現地に行く前に、合戦について書かれた歴史書を読んでおくといいでしょう。戦国時代の合戦史を研究している藤本正行氏の著書はずいぶん参考になります。長篠の合戦なら、『長篠の戦い ──信長の勝因・勝頼の敗因』(洋泉社歴史新書y)があります。
長篠の戦いで信長が使った鉄砲の数は、『信長公記』の原本・写本で1000挺というのもあり、3000挺というのもあって、結論が出ていません。また、鉄砲隊を三列にして交代で撃たせることで、弾込めの時間を短くしたと言われていますが、これも現在では否定されています。長篠の戦いについては、平山優氏の『検証 長篠合戦』(吉川弘文館)と藤本氏の『再検証 長篠の戦い』(洋泉社)で論争が行われており、それらを参考に自分なりの説を考えるのも、おもしろいかもしれません。
更新:11月22日 00:05