井伊家は、戦国時代の当主直平の時代に駿河の戦国大名今川家に属し、その子直宗が戸田氏との戦いで戦死して、孫の直盛が当主になります。
直盛は、叔父の直満の子である直親(亀之丞)を娘の直虎の婿にして跡取りにしようとしますが、家老小野和泉守の讒言により、直満は今川義元によって殺害され、直親も信濃に逃れます。このため、直虎は尼になり「次郎法師」を名乗ります。
直親は11年後に井伊谷に戻ってきますが、すでに信濃で子をもうけており、出家していた直虎は直親とは結婚しませんでした。
直盛が桶狭間の戦いで戦死した後、直親が、井伊家の跡取りとなります。しかし直親は、遠江に勢力を拡大していた徳川家康との内通を疑われ、駿府に申し開きに行く途中、掛川で朝比奈備中守に殺害されます。こうして男子のいなくなった井伊家では、直盛の娘で尼になっていた「次郎法師」を当主とし、直親の忘れ形見である直政の後見をします。
この時、次郎法師は「直虎」という男の名前を名乗ることになったと考えられていましたが、京都市の井伊美術館の館長井伊達夫氏が、『雑秘説写記』という史料を根拠に、井伊直虎は今川家の家臣だった新野親矩の甥(関口氏経の子)の井伊次郎だった、という新説を提唱しました。
もともと、「直虎」の名が出てくるのは、永禄11年(1568)11月9日付けで祝田郷に徳政を命じた文書(蜂前神社文書)だけで、これに「次郎直虎」という署名と花押が据えられていました。これまで、次郎法師=井伊次郎直虎と考えられていたのですが、これが別人だという説です。この文書が、関口氏経との連署だということもそれを補強します。
今川氏の家臣の関口親永には井伊直平(直盛の祖父)の娘が嫁いでおり、その間に生まれた娘が徳川家康の最初の正妻である築山殿です。親永と氏経の関係はわかりませんが、同じ一族だった可能性は高く、そうした関係から氏経が井伊谷の支配にあたったと考えればすっきりします。
『井伊家伝記』には、次郎法師の出家の話に続けて「この次郎法師は、井伊直親が殺害された後、その子の直政が幼少だったため、井伊家領地の地頭職を御勤めなされた」という記述があります。
次郎法師が、直親死後の一時期、井伊家領地の井伊谷の領主であったことを述べているのですが、次郎法師が井伊谷城の「女城主」になったわけではなく、実は井伊谷は今川氏の支配となり、今川氏の家臣・関口氏経と次郎法師だと思われていた「次郎直虎」という氏経の子が現地で徳政令などを行ったということになるのです。
大きな勢力に挟まれた国人領主の苦難は一般的なものだったでしょう。後に天下人となる徳川家康も、織田家に囚われたり、今川家に人質になったりするなど、苦難の幼少期を送っています。
それでも、松平家や井伊家といった有力な国人領主の嫡家(嫡流の家)には、一門諸家があり、譜代の家臣もいて、家が断絶しそうになっても何とか存続させています。下剋上の時代とは言え、嫡家と一門や譜代の家臣は運命共同体であり、お互いに支え合っていたことがわかります。
更新:11月22日 00:05