2017年11月24日 公開
2022年07月08日 更新
昭和45年(1970)11月25日、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で三島由紀夫が割腹自殺を遂げました。益田兼利東部方面総監の身柄を拘束、自衛隊員の集合を求め、その前で演説をした後のことです。
三島は昭和43年(1968)10月、保守系の学生を集めて、私兵組織ともいわれた「楯の会」を結成していました。定員は100名。当時は、多くの人々が革命を呼号し、学生運動が吹き荒れた時代です。彼らは自衛隊で軍事訓練を行なうなどの活動を積みつつ、左翼運動と対峙していきます。そして三島は、この楯の会から森田必勝はじめ4人のメンバーを選抜し、事件へと向かうのです。
三島はなぜこの事件を起こしたのか。想いはどこにあったのか。様々なことが言われていますが、この事件の時、三島は檄文を配布していました。以下に抜粋してみましょう(適宜抜粋引用し、改行を施します)。
「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのをみた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。
われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残ってゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。
われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。
あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。
今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである」 (引用終わり)
長い引用になりました。 三島の主張の是非については、もちろんここでは問いません。ただ一つ、ここで考えたいのは「武士」ということについてです。三島はここで、「武士」という言葉を多用しています。三島が演説する映像も残されていますが、自衛隊員たちのヤジと罵声を浴びながら「それでも武士か」と叫ぶ姿が記録されています。
では、自衛隊員たちは「武士」ではなかったのでしょうか。事件から40余年を経て、東日本大震災という大きな災害を経た私たちは、はっきりと一つのことに気がつきます。あの災害に立ち向かい、救助に全力を尽した自衛隊員は、まごうことなき「武士」でした。自衛隊員ばかりではありません。警察、消防はじめ関係者の皆さんは「武士」でした。現場で繰り広げられた活動の数々を想起する時、私たちはそう思わざるをえません。
三島の主張からすれば逆説的ではありますが、大震災という極限の場において、わが身の犠牲をいとわずに「生命尊重の価値」を徹底的に守ろうとしたその姿によって、武士道が体現されたようにも思います。
その意味では、あの事件の現場で三島が語った「武士」像は、一面的であったのかも知れません。「生命尊重」と「魂」は二律背反ではない。「救いたい」「救わねば」という思いが、自己犠牲をいとわぬほど徹底される時、日本古来の武士道が目覚める。一片の法律では覆せない「魂」が、そこにはあるように思われてなりません。 ここに、日本文化の深さと強さを見る思いがします。そしてこの静けき強さと深さによって、今、日本は大きく変わろうとしているようにも感じられます。
更新:11月23日 00:05