2017年11月18日 公開
2018年10月26日 更新
1916年11月18日、ソンムの戦いが終結しました。第一次世界大戦における最大の会戦で、7月から3ヵ月近く続いたイギリス・フランス軍とドイツ軍の戦いです。第一次大戦を描いた作品というと、レマルク原作の「西部戦線異状なし」がよく知られます。その中でも塹壕戦が描かれますが、ソンムの戦いもまさに塹壕戦を主とするものでした。
ソンムの戦いの舞台は、フランス北部ピカルディ地方を流れるソンム川の河畔の平坦で長大な戦線です。膠着する西部戦線において、連合国側のイギリス・フランス軍は同盟国側のドイツ軍に対して大規模な反攻を企てました。7月1日、それまで5日間続けた砲撃によって、ドイツ軍陣地はあらかた破壊できたと判断したイギリス・フランス軍は早朝、塹壕から出撃し、横一線となってドイツ軍陣地に向かいました。しかし実はドイツ軍は深い塹壕に身を潜めて砲撃をかわしており、健在だったのです。 結果は無惨なものでした。イギリス・フランス軍は19000人以上が戦死、57000人以上が負傷し、参加した兵士の半数、将校は実に3/4が失われたといいます。 これは1日に蒙ったイギリス軍史上最大の損失でした。
その後も局地的にイギリス・フランス軍はドイツ軍陣地を奪いはするものの、ドイツ軍側にも増援があって容易に前進はできません。9月15日には、イギリス軍は秘密兵器であったMkI戦車を投入、塹壕や悪路をものともせず、銃弾を跳ね返して突進する戦車にドイツ軍は驚きますが、戦局を変えるには絶対数が足りず、大きな影響を与えるには至りませんでした。
9月末には悪天候のため、塹壕に籠もる将兵にとっては悪夢のような状態となります。なにしろ塹壕には暖房もなければ水道もなく、屋根もありませんから、雨が降ればずぶ濡れとなり、雨水は足もとにたまって足は常に泥水の中に浸かっている状態となります。そのため、水虫のような皮膚病に感染する者が続出しました。
そうした中でも敵の砲撃は容赦なく続きます。 食事も降り注ぐ土砂の中で摂らなければなりません。小麦の粥は煤煙と泥で真っ黒ですが、誰もがゴミを取り除いて黙々と食べます。そして宵闇の中で行なわれる点呼。返事がなければ、もちろんその人間は戦死したということです。肉体的にも精神的にも将兵は疲労困憊であったろうことが想像できるでしょう。
結局、3ヵ月続いたこの戦いは両軍とも目ぼしい戦果を挙げることなく、対峙したまま終息を迎えます。しかし犠牲者の数は膨大で、イギリス・フランス軍が250万人を投入して死傷者90万人、ドイツ軍が150万人を投入して死傷者60万人を数えました(異説あり)。この戦いは日露戦争の旅順攻略戦から僅か12年後のこと。旅順の戦いにおける乃木第三軍の死者が約16000人、負傷者が44000人といわれますから(これも異説あり)、一桁違うことがわかります。もちろん投入された兵員の数、戦線の規模が違いますから、旅順と単純比較はできませんが、それにしても近代戦の被害の甚大さを痛感させられる数字ではあるでしょう。
イギリス人は、第一次大戦のことを「Great War」と呼びます。苦しく悲惨な戦いであったはずですが、彼らは「偉大な」というニュアンスを込めて語るのです。大戦前まで「名誉ある孤立」を保ち、大陸の事情からは距離をとっていたイギリスですが、ドイツ軍のベルギー侵攻によって、ベルギーの安全を保障する立場であったイギリスは、対独戦に参戦せざるを得なくなりました。それがイギリスの「義務」であったからです。イギリス人にとって第一次大戦は、自国の義務と責任を果たすための戦いでした。国民はイギリスの名誉を守るために、戦場に赴いたのです。彼らが「Great War」と表現する時、そこには今も、立派に戦った当時のイギリス人に対する尊敬の念と誇りが込められています。
更新:11月23日 00:05