2017年07月26日 公開
2019年07月02日 更新
昭和20年(1945)7月26日、アメリカの重巡洋艦インディアナポリスがテニアン島に到着し、「極秘物資」の陸揚げを行ないました。11日後に広島に投下される原子爆弾でした。
重巡インディアナポリスは、中部太平洋艦隊(後に第五艦隊)において、司令官レイモンド・スプルーアンス提督が座乗する旗艦を務めていました。 しかし昭和20年3月31日、沖縄上陸作戦の直前に特攻機の攻撃を受けて大破、戦列を離れて本国へと戻ります。 カリフォルニアにたどり着いた同艦は、メーア・アイランドで3ヵ月にわたる復旧作業が行なわれました。 あと2週間ほどで満足な状態になるところで、艦長のマックベイ大佐は7月15日、サンフランシスコの海軍本部に呼び出されます。そこで受けた命令は、インディアナポリスをメーア・アイランドからサンフランシスコ近郊のハンターズポイントに移動させ、2人の陸軍将校を乗せるとともに、極秘物資を受け取れというものでした。
その極秘物資が何であるか、艦長には知らされていません。マックベイ艦長は、極秘物資をできるだけ早く、テニアン島に輸送することを命じられます。途中、ハワイに寄って燃料と物資を補給し、同乗者を下ろした後は、一路テニアン島を目指すというスケジュールでした。 そして、途中で万が一にも艦が沈没するような事態に至った場合は、極秘物資を救助艇に移すなどして、絶対に沈めてはならないと厳しく言い渡されます。
極秘といわれれば、その中身が何であるのか気になるのが人情です。インディアナポリス乗組員の間では、様々な憶測が飛び交いました。
「女優リタ・ヘイワ―スの下着かもね」
「いや、金の延べ棒に違いない」
「お前達、何も知らんのだな。マッカーサー元帥御用達の、香水付トイレットペーパーだ」
ハンターズポイントで、大きな木箱に収められたそれはインディアナポリスに積み込まれます。中身を知るのはトルーマン大統領、チャーチル英国首相、マンハッタン計画の指導者・オッペンハイマー博士と同僚、そして陸軍将校に扮した2人の科学者のみでした。
インディアナポリスは7月16日にサンフランシスコ湾を出港。僅か74.5時間でハワイのパールハーバーに入港し、5時間後には5300km先のテニアン島に向けて出港します。ハワイ出港港、7日にしてインディアナポリスはテニアンに到着。7月26日早朝のことでした。インディアナポリスが錨を下ろすと、多数の小艦艇が集まり、陸海軍の将官が30人もいたことに、乗組員たちは驚いたといいます。
当時、テニアンは戦略的要地で、ここからB29が日本本土爆撃のために飛び立っていました。そして極秘物資の積み下ろしが終わる頃、爆撃指揮官ウイリアム・パーソンズ大佐がグアムから到着。彼は11日後の8月6日、B29「エノラ・ゲイ」機内で原子爆弾の組み立てを行ないます。
一方、積荷を下ろしたインディアナポリスには、グアムに向かい、そこでレイテまでのルートの指示を受けるよう命令されました。テニアン到着から6時間後、インディアナポリスはグアムに向け出港します。ところがグアム到着後、インディアナポリスは思わぬ齟齬に見舞われました。これから向かうレイテ方面は、日本海軍の潜水艦が展開している可能性が高く、マックベイ艦長は護衛の駆逐艦の随行を要請しますが、出払っているという理由で却下されてしまいました。やむなく単艦でレイテへ向かうインディアナポリスですが、今度は同艦がレイテに向かっていることを、無電の通信エラーなどで受け入れ先に伝わらず、レイテの第九五・六機動部隊司令官オルデンドルフらは知りませんでした。もし同艦に何かが起きてレイテに到着しなくても、味方は気がつかない状況となったのです。
そして、危惧していたことは7月30日0時5分に起こりました。艦に大きな衝撃が走り、マックベイ艦長はベッドから床に叩きつけられます。 出火し、艦内に白い煙が充満し、電気系統も寸断されました。日本海軍の伊号第58潜水艦の酸素魚雷が命中したのです。艦長が総員退去を命じたのは、魚雷命中から8分後でした。12分後にインディアナポリスは沈没、乗組員約1200名のうち300人が魚雷攻撃で死亡し、残りの900人は海に投げ出されます。しかしレイテ側が同艦の到着日時を把握していなかったため、漂流する乗組員がアメリカ軍の哨戒機に発見されたのは、8月2日になってからでした。この発見の遅れのため、乗組員たちは水、食糧の欠乏、鮫の襲撃もあり、救出されたのは僅か316名といわれます。
日本人であれば、できれば原子爆弾を積んでいる時に撃沈していればと、思いたくもなるでしょう。歴史の皮肉というべきでしょうか。伊号第58潜水艦が原爆投下の情報を受信したのは、8月7日頃のことといわれます。
更新:11月23日 00:05