2017年11月09日 公開
2018年10月26日 更新
1431年11月10日、ワラキア公ヴラド3世が生まれました。ヴラド・ツェペシュの名で、またブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとしても知られます。ツェペシュはルーマニア語で、「串刺し」を意味します。
1431年(1430年とも)、ヴラドは、ワラキア公ヴラド2世の次男として、トランシルヴァニア地方のシギショアラで生まれました。日本でいえば室町時代、6代将軍足利義教の頃です。ワラキア公国はルーマニアの南部(南カルパチア山脈の南)、現在の首都・ブカレストのある周辺にありました。西のハンガリーとは断続的な交戦状態にあり、また南からはバルカン半島制覇を窺うオスマン帝国の脅威にさらされています。
父親のヴラド2世は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に任じられていたため、竜公(=ドラクル)と呼ばれていました。1444年、ヴァルナの戦いにおいて、ワラキア公国を含むバルカン半島の諸侯連合軍・ヴァルナ十字軍はオスマン帝国に敗れ、ヴラド2世はオスマン帝国に従属することになり、13歳のヴラド3世と弟のラドゥ(美男公)はオスマン帝国の人質となります。数年間の人質時代にヴラド3世は英才教育を受けたといわれ、また疑り深く、兇暴で狡猾な性格が培われたともいわれます。
1447年12月、トランシルヴァニア公でハンガリーの摂政ヤーノシュがワラキアに攻め込んできた混乱の中で、父のヴラド2世と兄のミルチャが殺害されました。そこでヴラド3世はオスマン帝国の後押しを受けて、ヤーノシュが公位に就けたヴラディスラブを退けてワラキア公の座に就きますが、2カ月後にヤーノシュの反撃でその座を追われました。ヴラド3世はやむなくモルダヴィア(ルーマニア東北部)に亡命し、その後、父や兄の仇敵であるヤーノシュを頼ります。そして1456年、ハンガリーから独立しようとするワラキア公ヴラディスラヴをヤーノシュの支援を得て退け、25歳でワラキア公に返り咲きました。
1459年、ヴラド3世は父や兄を裏切った領内の貴族たちを粛清し、政治制度改革によって中央集権化を進め、強力な直轄軍を編成して、国力回復に努めました。また同年頃より、オスマン帝国への貢納を拒否します。オスマン帝国が貢納を命じる使者を派遣すると、帽子を取らない使者の無礼を咎めて、帽子ごと頭に釘で打ちつけたとも、生きたまま串刺しにしたともいわれます。そしてドナウ河岸のオスマン帝国守備隊を電撃的に壊滅させました。
これに対し、オスマン帝国のスルタン(国王)メフメト2世は、十数万もの兵力を動員して何度もワラキアへ侵攻しますが、ヴラド3世は奇襲と退却のゲリラ戦術と焦土作戦によって僅か1万の兵力で撃退。なかなかの戦巧者ぶりです。1462年の戦いでは、メフメト2世を討ち取るために夜襲を敢行。スルタンの親衛隊イェニツェリ(スプーンや鍋をシンボルにする精鋭部隊)の激しい抵抗にあって討つことはできませんでしたが、オスマン帝国軍に打撃を与えました。そしてワラキアの首都に入ったメフメト2世が見たものは、林立するオスマン兵の串刺しであり、酸鼻な光景にメフメト2世は戦意を失い、ワラキアを撤退するに至ります。
しかしそれでメフメト2世がワラキアを諦めたわけではなく、同年にはヴラド3世の弟・ラドゥを擁し、ワラキアの貴族の離反を図ってヴラド3世を追い落とし、ラドゥのもと、ワラキアはオスマン帝国の臣従国となりました。ヴラド3世はトランシルヴァニアに亡命したところをハンガリー王に捕らえられ、ドナウ河岸の砦のソロモンの塔に12年間幽閉されることになります。絶望したヴラド3世の妻が、ポエナリの城の塔から投身自殺したのはこの頃のことでした。
幽閉中にヴラド3世は正教会からカトリックに改宗し、ハンガリー王の妹を妻とします。そして1475年、モルドヴァに侵攻したオスマン帝国軍を迎撃する指揮官としてヴラド3世は解放され、オスマン帝国軍を撤退させました。その功により、ヴラド3世は翌年、三度目のワラキア公となります。
ところがその僅か1ヵ月後、ヴラド3世は命を落としました。 オスマン帝国軍を撃退し、丘に一人で上ったところを襲撃されての戦死とも、側近に斬りつけられて殺されたともいわれ、詳細は不明です。享年45。
その首はスルタンのもとに送られて晒し首となり、遺骸はワラキアの修道院の祭壇下に埋葬されましたが、18世紀にワラキア大主教の意向で掘り出され、改めて入り口近くの踏みつけられる場所に葬られたといわれます。吸血鬼ドラキュラを連想させる話ではあります。
なおヴラド自身は、父のヴラド2世がドラクル(竜公)と呼ばれていたので、その子・小竜公という意味でドラクレアと称していました。ドラクレアの英語読みがドラキュラです。
更新:11月21日 00:05