2017年10月25日 公開
2022年06月27日 更新
昭和19年(1944)10月25日、レイテ沖海戦におけるサマール島沖海戦が行なわれました。戦艦大和が敵艦隊に向けて、最初で最後の砲戦を挑んだことで知られます。
10月25日には、大きな海戦だけでも3つ行なわれています。25日未明、西村祥治中将率いる西村艦隊(旗艦・戦艦山城)が、レイテ湾を目指してスリガオ海峡を通過中、戦艦6隻を基幹とする強力なアメリカ艦隊の待ち伏せを受けました。このスリガオ海峡海戦で、西村艦隊の戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦3隻が沈没、脱出し得たのは駆逐艦時雨僅か1隻のみ。司令官の西村中将も戦死する全滅を遂げました。小沢治三郎は後に「レイテで真剣に戦ったのは、西村だけだ」と述懐しています。
一方、アメリカ海軍のハルゼー大将率いる機動部隊(第38任務部隊)を、北方へと吊り上げることに成功した小沢治三郎中将率いる小沢艦隊(第三艦隊、旗艦・空母瑞鶴)は、栗田艦隊がレイテ湾に突入することを確信します。そして25日午前8時頃より、予想通り、米機動部隊の攻撃を受けました。そして夕刻までに、小沢艦隊の4隻の空母すべてが沈み、軽巡多摩、駆逐艦2隻も沈没しています。しかし敵が自分たちを攻撃しているということは、栗田艦隊は安泰と、囮役に徹しました。なお、小沢艦隊の航空戦艦日向、伊勢はこの時、敵の猛烈な空襲を見事にかわし、ほとんど無傷で帰還することを得ました。これは航空攻撃の回避法に長けた、松田千秋第四航空戦隊司令官の指揮が大きかったといわれます。
そして小沢艦隊が、自らを犠牲にしてレイテ湾突入を後押しした栗田艦隊。25日時点の栗田艦隊(旗艦・戦艦大和)の陣容は、戦艦4、重巡6、軽巡2、駆逐艦11でした。前日に戦艦武蔵がシブヤン海に没したことは、昨日ご紹介した通りです。 サマール島沖に差し掛かっていた栗田艦隊は午前7時前、敵の空母部隊を発見。これは上陸支援を行なっていた護衛空母群でしたが、栗田艦隊は敵の主力機動部隊と誤認、直ちに攻撃に入ります。サマール島沖海戦の始まりでした。 以下、当時、大和で測距儀測手を務めていた故・石田直義さんから直接伺ったお話を紹介しましょう。
「その時、大和の測距儀測手を務める私は、艦最上部の測的所にいました。測的を行なうには、一つの測距儀だけでは目標と誤差が生じるので、3つの測距儀で同時に同一目標を測り、平均値を出します。 その際、こちらの速力、敵の速力、風力などを計算して、即座に割り出さなくてはなりません。大和の測手は3人とも、軍歴10年以上の経験者でした。測距を報告すると、すでにブザーの合図によって、甲板の機銃手は安全な場所に退避しています。 主砲発射の猛烈な爆風で、甲板員が吹き飛ばされてしまうからです。そして大和の46cm主砲が、初めて敵艦に向けて斉射。その轟音と衝撃たるや、艦の最高所の測的所にまで伝わり、艦が一瞬、止まったかのように感じました。『初弾命中!』。その第一声を発したのが私です。艦内に何ともいえないどよめきが広がりました。敵空母を護衛する駆逐艦は目隠しの煙幕を張り、敵艦隊からは平文で『日本艦隊来たる。救援請う』の緊急電が発せられて、逃走を始めました。 追撃戦の最中、大和が沈みかけている敵艦の側を通過する際、敵艦に機銃を撃つ兵がいましたが、森下信衛艦長が『傷ついた者は撃つな。武士の情だ』とすぐにやめさせました。 やがて追撃を終え、大和以下第二艦隊(栗田艦隊)はレイテ湾へと向かいます。ところが、湾を目前にして艦隊は反転。『なぜ突入しないのか』と、悔しい思いをしたことを覚えています」。
大和の初弾が命中したのか、そしてなぜ栗田艦隊はレイテ湾を目前にして反転したのか。今でも諸説があります。しかし当時、大和に乗り組んでいた下士官は、このように語っています。
レイテ沖海戦は一見、華々しい割に、ほとんど得るものがなく、むしろ連合艦隊を壊滅させてしまった戦いともいえます。もちろん当時の状況においては、選択肢は限られていたでしょうし、戦いの流れのようなものもあったでしょう。ただし、もっと他に有効な手立てはなかったのか、そう思わずにはいられません。
更新:11月21日 00:05