2017年10月19日 公開
2023年03月09日 更新
京都・吉田神社
明智光秀には、友人に対して面倒見のいいところがある。元亀3年(1572)に織田信長が上洛した際、親交が深かった吉田兼見に、その情報をいち早く伝えてあげているのだ。
おかげで兼見は、京都で信長をしっかりと出迎えることができた。兼見の父・兼右は、信長と面会し、金子一枚を直接もらってもいる。
吉田家は、吉田神道の総本山・吉田神社の神官で、公家の一員である。とはいえ、公家社会の中では成り上がり者だったので、織田政権との関係作りができたことは、ありがたかったに違いない。
兼見の日記『兼見卿記』には、しばしば光秀のことが書かれており、兼見と光秀の深い交流が窺える。
『兼見卿記』は元亀元年(1570)6月から始まり、光秀の初登場は同年11月13日である。その時、光秀は「石風呂」を所望したという。今で言う、サウナである。サウナを借りるくらいだから、この時点で、既にかなり親しかったはずだ。その10日後にも、再び石風呂に入りに来ている。
ちなみに、妙心寺(京都市)には、「明智風呂」と呼ばれる、サウナのような浴室があるが、光秀が入ったものではなく、僧の密宗が、光秀の菩提を弔うために建てたと伝えられている。密宗は光秀の叔父だという。
天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の後、兼見は誠仁親王に、光秀への使者を命じられる。公家の中で、最も光秀と親しかったのだろう。
6月7日に安土城に入った兼見は、光秀と「今度の謀反の存分」を話し合ったと、『兼見卿記』に書かれている。しかし、残念なことに、その内容は記されていない。
6月13日に、山崎で光秀が敗れると、兼見は光秀との交友関係を隠そうとしたらしい。日記を書くのを6月12日で止めた上に、天正10年分を正月から書き直しているのだ。
戦国の世の習いだろうが、友情の哀しき結末のようにも感じられる。
更新:11月28日 00:05