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国学者・本居宣長~「もののあはれ」の思想とは?

2017年09月29日 公開
2018年08月28日 更新

9月29日 This Day in History

本居宣長

国学者、本居宣長が没

今日は何の日 享和元年9月29日

享和元年9月29日(1801年11月5日)、本居宣長が没しました。江戸時代の国学者、文献学者として知られ、鈴屋大人(すずのやうし)とも呼ばれました。

享保15年(1730)、宣長は伊勢松坂の木綿商・小津定利の次男に生まれます。幼名は富之助、後に弥四郎、健蔵。幼い頃より15歳まで、手習いをはじめ千字文、謡曲、四書を学びました。16歳の時、江戸の叔父の店で一年ほど修行。19歳の時、伊勢山田の今井田家の養子となり、紙商売を始めますが、21歳で離縁になります。兄の宗五郎は江戸で独立していましたが、宣長が22歳の時に死去したため、宣長が家督を継ぐことになりました。しかし家業よりも読書に熱の入る宣長に、母親は医者になることを勧めます。

そこで23歳で京都に遊学、堀元厚、武川幸順に医術を、また堀景山に師事して儒学、国学などを学びました。景山は朱子学を奉じながら、反朱子学の荻生徂徠にも関心を持ち、また古典学者(国学者)の僧・契沖にも傾倒していたため、宣長も影響を受けることになります。自分の姓を先祖の「本居」に戻したこともその表われで、以後、宣長は国学の道に入ることを決め、王朝文化に魅せられていきました。

26歳の時、武川幸順から一通りの医術を学び終え、さらに医療の実習を重ねて、2年後に松坂に帰郷。28歳の時に松坂魚町で医者(内科・小児科)として開業しました。そのかたわら、翌年には同じ魚町で古典講釈塾を開き、『源氏物語』などを町人に向けて講じます。また『日本書紀』の研究に力を注ぎ、さらに『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』や『古事記』の研究にも取り組みました。

そんな折、賀茂真淵の著書『冠辞考』(『万葉集』に出てくる枕詞についての考察の書)に接し、国学の研究に拍車がかかります。やがて宣長は、手紙で真淵に教えを乞うようになり、宝暦13年(1763)、伊勢神宮参宮のために松坂を訪れた真淵と一夜、初めて対面することができました。そして、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を申し入れます。時に宣長、34歳。翌年、真淵から入門を許されると、以後は手紙でのやり取りで教授が行なわれ、それは真淵が死去するまでの6年間続きました。

その後も宣長は、昼間は医者としての仕事に専念し、自身の研究や門人への講義は夜になってから行ないました。代表的な著書に『古事記伝』44巻、『源氏物語玉の小櫛』9巻、『詞の玉緒』7巻、『玉勝間』15巻などがあり、詠んだ和歌は1万首に及ぶといわれます。また門人は489人を数えました。その半数以上は町人や農民です。宣長の思想を象徴するものに、「もののあはれ」があります。儒教的な「勧善懲悪」とは全く異なるその概念こそが、日本固有の情緒であり、王朝文学の本質であるとしました。そして、その頂点こそが『源氏物語』であると位置づけます。

なお宣長は生涯、市井の学者で通しますが、63歳の時に紀州徳川家に松坂在住で仕官し、生涯に3度、和歌山を訪れて藩主などに古典講釈を行ないました。また紀州徳川家に贈られた『玉くしげ別本』の中で、法を遵守するあまり人を軽々しく処刑することのないよう、死刑の緩和を求めています。

ところで彼が自宅の書斎を「鈴屋」と呼んだのは、自身が大変な鈴のコレクターで、珍しいものを多く所持していたとか。また、甘いものに目がなかったという話もあるようです。伊勢名物の赤福も食べたりもしたのでしょうか。享和元年没。享年72。

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