2017年09月01日 公開
2018年08月28日 更新
明治10年(1877)9月2日、和宮親子内親王が世を去りました。孝明天皇の異母妹で、徳川14代将軍家茂の正室として知られます。
弘化3年(1846)、和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれました。母親は橋本経子(観行院)。父の仁孝天皇は和宮誕生の前に崩御しており、和宮の名は兄の孝明天皇より賜っています。嘉永4年(1851)、6歳の時に孝明天皇の命で有栖川宮熾仁親王と婚約しました。
安政5年(1858)、日米修好通商条約を幕府が勅許を得ずに締結したことに孝明天皇は怒り、幕府に攘夷を促す密勅を水戸藩に下します。これに対して大老・井伊直弼は安政の大獄を断行、その一方で公武一和を目指す意味で、14代将軍家茂の御台所として皇女の降嫁が画策されました。幕府からの打診に、すでに婚約者もいる和宮は将軍降嫁を拒みますが、公武間の溝が深まることを危惧する孝明天皇は苦慮の末、和宮を説得します。
文久元年(1861)12月、和宮は江戸城大奥に入ります。当時、大奥の頂点にいたのは、前将軍家定の御台所で将軍家茂の義母にあたる天璋院(篤姫)でした。和宮と天璋院の初対面の際、さっそく一悶着起きます。天璋院が上座で茵(しとね)の上に着座したのに対し、和宮の席は下座で茵もありません。通常の嫁姑であればそれでよいのですが、公家社会では姑でも内親王の上座に着くことはあり得ず、和宮のお付の侍女たちは納得しません。勝海舟は後年、こう語っています。
「天璋院と和宮は初めは仲が悪くてね。なに、お附のせいだよ。初め和宮が入らした時に、御土産の包み紙に〈天璋院へ〉とあったそうな。いくら上様でも徳川氏に入らしては姑だ。書ずての法は無いといって、お附が不平をいったそうな……」
公家と武家のしきたりの違いから、和宮と天璋院の侍女同士の対立は激しかったようです。しかし翌文久2年に婚儀を挙げた将軍家茂と和宮夫婦は、17歳の同い年ということもあり、仲睦まじいものでした。家茂も幼い頃から政争の具として扱われ、互いに似た境遇であることや、家茂自身の誠実さに和宮も心を開いていったのです。10月8日の玄猪の日には、子宝を願って食べる亥子餅をふたりして仲良く頬張っています。
婚儀から1年後の文久3年(1863)、家茂は孝明天皇に拝謁すべく上洛。留守を預かる和宮は、芝増上寺の黒本尊の御札を勧請して居室の上段に安置し、家茂の無事を祈ってお百度を踏み続けました。家茂は6月に帰還しますが、その年の暮れ、再び上洛。和宮も再びお百度を踏みながら、自分の立場と役割を客観的にとらえるようになっていきます。
天璋院との関係も変わり始めました。勝海舟が語るところでは「或る時、浜御殿へ天璋院と将軍と和宮が三人でいらしたが、踏石の上にどう云うものか天璋院と和宮の草履を上げて、将軍の分だけ下に置いてあつたよ。天璋院は先に降りられたがねー、和宮はこれを見て、ポンと飛んで降りて、自分のを除けて将軍のを上げて辞儀なすったそうで、それでぴたりと静まったよ」。天璋院もこの和宮の行動に驚き、将軍の妻として振舞う和宮を見直しました。
しかし慶応2年(1866)、将軍家茂は3度目の上洛の際、大坂城で病没。それからほどなく、孝明天皇も崩御されます。和宮は悲嘆に暮れますが、そんな彼女に手を差しのべたのは天璋院でした。天璋院自身もかつて夫と養父・島津斉彬を立て続けに亡くしており、和宮の心細さを最もよく理解できたのです。和宮には夫の死を理由に、京に戻る選択肢もありましたが、和宮はそうしませんでした。落飾して静寛院宮と名乗り、徳川将軍の正室として、日に日に苦しい立場となっている徳川家を支える道を選ぶのです。それは天璋院と同じ道でもありました。ここに天璋院と和宮は何者にも代え難い同志となり、幕府瓦解から江戸城総攻撃の危機を、協力して乗り越えていくことになります。
維新後、徳川家が駿府70万石で存続することを見届けて、和宮はいったん京都に帰りますが、明治7年(1874)に再び東京に出て麻布に居を構え、天璋院と互いの屋敷を行き来し、時おり、勝海舟の屋敷に二人で遊びに行ったりしています。天璋院は義母とはいえ、和宮と年齢差は10歳ほどで、姉妹のように見えたことでしょう。
明治10年、和宮は脚気療養のため箱根で湯治していた際に、衝心の発作で急逝しました。享年32。生前の意志に従って、遺体は増上寺の家茂の傍らに葬られました。その胸には家茂の写真が抱かれていたといわれます。
更新:11月23日 00:05