2017年04月10日 公開
2019年03月27日 更新
木戸孝允の墓(右)と妻・松子の墓(左)(霊山護国神社)
明治19年(1886)4月10日、木戸孝允の妻・松子が亡くなりました。桂小五郎時代の木戸を支えた、三本木の芸妓・幾松として知られます。
幾松の父親は若狭小浜藩士の木崎市兵衛ですが、藩内の事件に巻き込まれて罪を着せられ、妻子を残して京都に出奔しました。幾松は母とともに父を追って京都に出たとも、父を探しに京に出た母の後を追って京に出たともいわれます。その後、幾松は難波常二郎の養女となりますが、難波の妻が元芸妓でかつて幾松と名乗っていました。
安政3年(1856)、14歳で幾松の名を襲名すると、三本木の舞妓から芸妓へと成長していきます。 そんな幾松が運命の人・長州の桂小五郎と出会うのは文久2年(1862)、幾松20歳の頃でした。
当時の桂は29歳、長州藩において重きをなし始めた頃で、尊王攘夷を掲げ、久坂玄瑞らとともに京都で朝廷に影響力を及ぼしていました。しかし翌文久3年、朝議を意のままに動かす長州藩を排斥しようと、薩摩藩と会津藩が八月十八日の政変を起こし、長州藩は失脚。巻き返しを図る長州藩は元治元年(1864)、御所に突入する禁門の変を起こし、敗れました。桂が乞食に身をやつして二条大橋の下に潜み、幾松がひそかに握り飯を届けた逸話はこの時のことです。また芝居などでは、桂が幾松と会っていた座敷に新選組の近藤勇が踏み込み、幾松は長持ちに桂を隠して、自らは悠然と舞ったという話や、座敷の隠し通路から鴨の河原に桂を脱出させた話、さらには幾松が近藤に連行された話などが語られますが、確たる史料はありません。いずれにせよ幾松が、命に危険にさらされていた桂を、身をもって助けたことは間違いないようです。
その後、桂は単身但馬出石に潜伏し、幾松はしばらく対馬藩邸に匿われますが、幕府の探索の目が厳しく、対馬藩士によって下関へ送られました。やがて幾松自ら出石へ桂を迎えに出向きます。一説に出石から萩城下へ二人で向かう旅が、坂本龍馬よりも一足早い日本初の新婚旅行ともいわれるようです。
四境戦争(第二次長州征伐)、戊辰戦争の頃は長州で過ごし、桂改め木戸孝允と幾松改め松子が正式に結婚したのは明治3年(1870)のことでした。 しかし、結婚生活は長くはありません。新居は東京に構えていましたが、明治10年(1877)、木戸は旅先の京都で病のため危篤に陥り、かけつけた松子の手当ての甲斐なく他界。松子は髪を下ろし、木戸の墓を守って9年後に京都で病没しました。享年44。
この夫婦にとっては思い出の地の京都が、連れ添って眠るのにふさわしい場所であったようです
更新:11月22日 00:05