2017年11月28日 公開
2018年10月26日 更新
天保6年11月28日(1836年1月16日)、明治の元勲・井上馨が生まれました。長州藩の志士で、幕末当時は井上聞多の名で知られます。
井上馨は長州藩士・井上五郎三郎の次男として、周防国湯田村に生まれました。今も湯田温泉で有名です。その後一時、志道家の養子となりますが、また井上家に戻っています。藩校・明倫館で学んだ後、江戸に出て江川太郎左衛門などに入門し、蘭学を学びました。高杉晋作や伊藤俊輔(博文)らと親しかったため、松下村塾門人と思われがちですが、馨は吉田松陰には入門していません。
文久2年(1862)、長州藩の多くの若者と同じように尊王攘夷運動に加わった馨は、江戸遊学中、高杉や久坂玄瑞、伊藤、品川弥二郎らとともに、品川御殿山の英国公使館焼き討ちを実行しています。過激な攘夷行動をとる一方で、翌文久3年、藩に願い出て、伊藤、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助とともにイギリスに留学すべく密航しました。いわゆる「長州ファイブ」(井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉の5人)です。西洋の実情を探るためでしたが、馨や伊藤らは現地で西洋の文明と国力に驚嘆し、さらに長州藩とイギリスをはじめとする連合艦隊が砲火を交えようとしていることを知って、あわてて日本に帰国。下関での四カ国連合艦隊との折衝では、和平交渉に努めました。
その後、幕府の第一次長州征伐に際しては、武備を怠らずに恭順することを唱えたため、藩の保守派(俗論党)に睨まれ、山口の政事堂から湯田の自宅に帰る途中、袖解橋付近で刺客に襲われ、ずたずたに斬られました。本来でしたらここで落命していたはずの馨でしたが、瀕死の状態で家に運ばれた馨を、たまたま訪れていた美濃の浪士で医術の心得のある所郁太郎が、畳針で傷口を縫い合わせ、九死に一生を得ました。また馨が懐に、馴染みの芸妓から貰った手鏡を入れていたため、刃がうまく急所を外れたともいわれます。人生、何が幸いするかわかりません。しばらく療養後、高杉の功山寺挙兵や、翌年の薩長同盟にも行動を共にしました。馨の顔にも残る生々しい刀傷は、博徒すらひるませる迫力で、随分押しが利いたようです。
維新後は外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任。明治16年(1883)には鹿鳴館を建設して不平等条約改正交渉に務め、また殖産興業に力を入れます。特に三井財閥とは密接な関係を持ち、西郷隆盛から「三井の番頭さん」と揶揄されるほどでした。そして多くの汚職事件に名を連ねたことが、馨のイメージを随分損ねることになったようです。
その一方で世話好きで、時に相手のことを思って本気で叱るため、馨に寄り付かなくなる者もいましたが、馨の本質がわかる者は篤く信頼しました。その中の一人が渋沢栄一で、渋沢は自分の仕事がうまくいったのは、馨が体を張って、外からの攻撃から守ってくれたからだと語っています。馨には必要とあらば割に合わない仕事でもあえて引き受ける面があり、そうしたところから誤解されて悪評につながった部分もあったのかもしれません。あるいはもっと再評価できる人物ではないかという気もします。大正4年没。享年80。
更新:11月23日 00:05