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浅野幸長~豊臣への忠義を尽くした勇将

2017年08月24日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

和歌山城
関ヶ原の戦いで軍功を上げた浅野幸長は和歌山城に入城した

 

今日は何の日 慶長18年8月25日

浅野幸長が没

慶長18年8月25日(1613年10月9日)、浅野幸長が没しました。浅野長政の嫡男で、武勇に優れた武将として知られます。

幸長は天正4年(1576)、近江国で浅野長政の長男に生まれました。幼名、長満丸。父・長政は羽柴秀吉の正室・おねの義理の弟にあたります。天正17年(1589)、従五位下・左京大夫に叙任。翌年、小田原の陣が起こると、15歳の幸長は疱瘡を病んでいましたが、父・長政に同行を願って初陣しました。

『名将言行録』によると、岩槻城攻めで自ら敵の首級を上げる武功を立て、さらに忍城攻めでは、浅野の軍勢が崩れかけた時、幸長は槍を横にして将兵の後退を押しとどめ、「わしはここにおるぞ、お前たち、わしを見捨てるか」と言い放って突進します。幸長の戦ぶりに味方も奮い立ち、千駄口の砦を奪取しました。この幸長の働きについて、ある者が秀吉に、「幸長殿は御下知を待たずに、勝手な振る舞いをしております」と告げ口しました。 すると秀吉は「わしは長満が生まれて七日目に、長政の屋敷を訪ねて、長満の泣き声を聞いた。その折、鳶が鷹を生んだものよと褒めたものだが、只今の働き、まさに逸物の鷹よ」と褒めたので、告げ口した者は口をつぐんだといいます。

その後、文禄・慶長の役で二度、朝鮮に渡って戦いました。慶長の役では蔚山城に拠り、自ら鉄砲を放って敵を倒すこと夥しく、黒煙で顔の半分が黒く染まるほどだったといいます。ある者が幸長の奮戦に気づき、「浅野殿は太閤殿下のご親類、急ぎ本丸に入られ候え」と勧めますが、幸長は二の丸から動きません。なぜなら蔚山城は加藤清正の城であり、自分が本丸に入ってあたかも主人面することを避けたのです。23歳の幸長の気配りは多くの将兵を感嘆させ、それが清正の幸長への信頼にもつながっていったのでしょう。

秀吉が没し、朝鮮出兵が終わると、帰国した幸長は、福島正則や加藤清正らと同じく、石田三成と対立しました。 また父親の長政が徳川家康暗殺の企てを疑われ、長政は幸長に家督を譲ると、一時期武蔵八王子近辺に蟄居します。その知らせに浅野の家臣たちは動揺しますが、ひとり幸長は「父君のなさることは、我らの浅知恵では推し量れぬ」と動ぜず、果たしてほどなく長政への疑いは晴れました。

関ケ原では東軍に味方し、前哨戦の岐阜城攻略などで活躍しています。 慶長16年(1611)、豊臣秀頼と徳川家康との対面の折、幸長は加藤清正とともに、秀頼の警固役として自ら二条城まで付き添い、対面を無事に終わらせました。徳川家に協力し、その体制下にありながらも、幸長は豊臣家への忠誠心を失わず、他の大名が関東の意向を気にする中で、秀頼のもとへ赴き、挨拶を欠かさなかったといいます。

秀頼と家康の対面から2年後の慶長18年(1613)、幸長は居城の和歌山で没しました。享年38。 死因は腎虚ともいわれますが、幸長の豊臣家への忠誠心を危ぶんだ徳川方が、暗殺したのではないかという説もあります。熊本で加藤清正が急死してから2カ月後のことでした。

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