2017年08月21日 公開
2023年04月17日 更新
嘉永7年8月22日(1854年10月13日)、辰野金吾が生まれました。日本の建築学の基礎を築いた人物で、東京駅を設計したことでも知られます。
金吾は肥前唐津藩の下級武士・姫松蔵右衛門の次男に生まれました。明治元年(1868)、15歳の時に父親の実弟の辰野宗安の養子となります。明治3年(1870)、17歳で藩の英語学校・耐恒寮に入学、同級生にやはり後に建築界で活躍する曾根達蔵がいます。教師は後に首相、日銀総裁となる高橋是清でした。明治5年に高橋が東京に戻ると、金吾もそれを追うように上京します。翌明治6年(1871)、20歳で工部省工学寮(後の工部大学校、現在の東大工学部)の第一回生として末席で入学。当時の工学寮は赤坂葵町の旧川越藩邸(現在のホテルオークラ)に置かれており、その後、虎ノ門(現在の霞ヶ関ビル)に移転しました。教養課程を修了すると、金吾はそれまでの造船志望をやめて、造家科(建築科)に進みます。
明治10年(1877)、同学科に若きジョサイア・コンドルが教授として着任、金吾も師事しました。コンドルは鹿鳴館や古河邸(現在の古河庭園)の設計で知られます。明治12年(1879)に造家学科を努力の末に首席で卒業した金吾は、官費留学生としてロンドンに赴きました。時に金吾、26歳。ロンドンではロンドン大学の建築課程及び美術課程で学ぶ傍ら、コンドルの師であるウイリアム・バージェスの事務所の研修生となって、建築の実務を学びました。
日本銀行本店
明治16年(1883)、留学から帰国すると、翌年、コンドルの後任として工部大学校教授に就任。さらに明治19年(1886)には銀座に辰野建築事務所を開きました。その頃、金吾は「日本銀行と中央停車場(現在の東京駅)、そして国会議事堂を建築設計したい」と常々語っていたといわれます。そして明治21年(1888)、希望が叶って日本銀行の設計者に決定すると、再度外遊して建築を調査する熱の入れようでした。明治29年(1896)、ベルギー国立銀行を参考にして日本銀行は竣工、その姿は現在も見ることができます。
明治35年(1902)、49歳で帝国大学工科大学教授を辞任。翌年、中央停車場こと東京駅の設計を依頼されました。もともと中央停車場と高架鉄道の設計は、ドイツの技術者フランク・バルツァーに依頼されていましたが、バルツァーの提案した日本の伝統建築を意識したプランは政府の意に沿わず、金吾に改めて委ねられたのです。金吾はルネサンス様式のオリジナルデザインで設計し、豪奢なその姿は「明治建築の集大成」ともいうべきものでした。明治41年(1908)に着工し、大正3年(1914)に竣工しています。ところが当時、建築の先端はコンクリートになりつつあり、煉瓦でできた東京駅の評判は必ずしも芳しくありませんでした。しかし大正12年(1923)の関東大震災において、コンクリート建築の多くが崩落する中、東京駅はびくともしなかったのです。
東京駅
そして金吾の念願の最後の国会議事堂については、大正8年(1919)に建築設計競技(コンペ)の審査員を務めましたが、第一次審査の時点で当時大流行していたスペイン風邪に罹患して、赤坂の自宅で息を引き取りました。享年66。金吾が手がけた建築は、先の東京駅、日本銀行本店をはじめ、大阪市中央公会堂、奈良ホテル、日本銀行京都支店(現在の京都文化博物館別館)、岩手銀行本店本館(現在の中ノ橋支店)、日本生命九州支店(福岡市)などで目にすることができます。
更新:11月23日 00:05