2017年08月13日 公開
2023年04月17日 更新
天正元年8月14日(1573年9月10日)、斎藤龍興が没しました。斎藤義龍の子で、美濃を織田信長に奪われたことで知られます。
龍興は天文17年(1548)、美濃の戦国大名・斎藤義龍の子に生まれました。幼名は喜太郎。義龍が斎藤道三の実子であれば、道三の孫にあたります。永禄4年(1561)、父・義龍が病没したため、14歳で家督を継ぎ、稲葉山城主となりました。しかし龍興は若年のうえ凡庸であったため、父の代までは撥ね付けていた尾張の織田信長の侵攻を度々受けることとなり、それを竹中半兵衛重治ら家臣が奮戦してその都度撃退していました。
ところが当の龍興は斎藤飛騨守ら気に入りの側近に囲まれて遊惰に溺れ、次第に半兵衛や西美濃三人衆ら重臣たちを疎んじるようになります。これを憂えた半兵衛は永禄7年(1654)、舅の安藤守就らと謀って僅かな手勢で稲葉山城を奪取してのけ、龍興は鵜飼山城、さらに祐向山城へと逃走しました。主君を戒めた半兵衛は、半年後に稲葉山城を龍興に返還し、自らは斎藤家を退去。龍興は城主に返り咲きますが、美濃斎藤氏の弱体ぶりは隠しようもありません。家臣らは織田の誘降にあって次々と離反し、永禄10年(1567)、稲葉良通、氏家直元、安藤守就ら西美濃三人衆が織田に通じたことで、もはや抗す術もなくなった龍興は、稲葉山城を開城して長良川を船で脱出し、伊勢長島に逃れました。時に龍興20歳。斎藤氏はここに美濃を失います。
……以上はよく知られる話ではありますが、まだ20歳の龍興が本当に暗愚であったといえるのかは疑問の余地があり、織田方や織田に通じた元家臣らが、自らを正当化するために龍興の記録を捏造した可能性もあるようです。龍興は伊勢長島で一向一揆に与して織田に対抗し、その後、畿内に移動して永禄13年(1570)には三好三人衆と結託。信長が擁立した将軍足利義昭を討つべく京の本圀寺を襲いますが、失敗しました。その後、縁戚を頼って越前の朝倉義景の客分となり、天正元年(1573)8月、義景が信長と対決すべく小谷城の後詰に近江に出陣した際には、ともに出陣します。しかし暴風雨の中で織田軍の急襲を受けた朝倉義景は、軍を退却させるものの織田軍の猛追撃を受け、刀禰坂の戦いで重臣の多くを失います。その中に龍興も含まれていました。一説に、皮肉にも旧臣・氏家直元の嫡男・直昌に討たれたともいいます。享年26。
なお富山には、龍興は刀禰坂で死んでおらず、朝倉氏滅亡後に越中の興国寺に逃れて帰農し、さらに出家したという伝説があるそうです。美濃斎藤氏については、道三2人説などまだ明らかになっていない部分も多いのですが、史料が限られ、龍興についても実像が見えにくいのが現状のようです。
更新:12月04日 00:05