2017年04月20日 公開
2019年03月27日 更新
弘治2年4月20日(1556年5月28日)、斎藤道三が討死しました。美濃の戦国大名で、「蝮(まむし)」の異名を持つ下剋上を代表する人物として知られます。
一介の油売りから身を起こし、美濃土岐家に仕えるや、さまざまな謀略を用いて、ついに一代で国主の座を奪い取ったことは、司馬遼太郎『国盗り物語』をはじめ多くの小説でこれまで描かれてきましたが、最近、従来の説に疑問が投げかけられています。というのも、近江の六角承禎が永禄3年(1560)に宿老に宛てた書状が残っており、それによると道三の息子・義龍の祖父が新左衛門尉で、新左衛門尉がかつて妙覚寺の僧であり、西村と名乗って土岐氏に仕え、国内の乱れに乗じて長井氏を名乗ったこと。またその息子・左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち、諸職を奪って斎藤氏を名乗ったこと。さらにその左近大夫と息子・義龍が義絶し、義龍が父の首を取ったことを記しているのです。つまりこれまで道三一代で行なったとされてきた美濃の国盗りは、道三の父・新左衛門尉と道三の二代で成した可能性が高くなっているのです。
道三が主人の土岐頼芸を追放して、美濃を完全に平定したのは、天文21年(1552)。その4年前に尾張の織田信秀との和睦のしるしに、信秀の息子・信長へ娘の帰蝶を嫁がせました。道三は息子・義龍よりも、「うつけ者」と呼ばれていた婿の信長に将器を見たといわれますが、どうであったのでしょうか。
義龍に家督を譲り、隠居するのは天文23年(1554)。道三が事実上の美濃国主となってから12年後のことでした。しかし、それから僅か2年後、道三は長良川の戦いで息子の義龍に討たれます。その理由として、義龍の母・深芳野(みよしの)はもともと土岐頼芸の側室であり、道三に下げ渡されたもので、義龍が自分は実は頼芸の子であると信じて、国を簒奪した道三を討ったといわれます。また道三は、いったんは家督を譲ったものの義龍を嫌い、自分の正室の子を当主にする気になって、義龍の廃嫡を画策したためともいわれます。さらに道三は、あらかじめ信長に美濃を譲る遺言書を送っていたともいい、長良川の戦いの際も、信長の援軍が向かったものの間に合わなかったという経緯も語られます。
道三が息子の叛心を見抜けずに家督を譲ってしまったのか、それとも家督を譲った後に道三が心変わりしたのかはわかりませんが、少なくとも父子間の確執で道三は命を落としました。享年63。それから5年後、義龍も急死します。 斎藤道三には、まだまだ謎が多いようです。
更新:11月24日 00:05