2017年08月13日 公開
2023年04月17日 更新
明治33年(1900)8月14日、北京の列国公使館が清国兵と義和団に攻撃を受ける中、柴五郎陸軍中佐指揮の守備兵が60余日の籠城戦を守り抜きました。
事の起こりは日清戦争後のロシアの南下と、列強の中国分割にあります。明治28年(1895)、日本は列強のアジア侵略を食い止めるべく、朝鮮を清の隷属から独立させる目的で日清戦争を戦い、勝利しました。しかし、ロシア・フランス・ドイツの三国が干渉し、日本は屈服して遼東半島の領有権を放棄します。その後、列強は清国を蚕食し、特にロシアは遼東半島の旅順、大連を租借し、東清鉄道の施設権も獲得、事実上、満洲を併呑します。こうした背景の中で明治33年に勃発したのが、北清事変(義和団事件)でした。
義和団は「扶清滅洋」を叫ぶ過激な排外主義集団で、北京はじめ各地で暴動を起こし、その矛先は北京にある11カ国の公使館に向けられます。しかもこの事態に清国軍は義和団を鎮めるどころか後押しし、6月5日には日本公使館の杉山書記生が清国兵に殺害され、20日にはドイツ公使が白昼、清国兵に銃殺されます。紫禁城東南の一角にある公使館区域は一気に緊張に包まれました。自衛の必要に迫られた公使館区域ですが、もとより十分な防衛力はなく、約800m四方の区域に各国の守備兵を合わせて430人、義勇兵150人を加えても580人ほどです。これで義和団及び清国軍1万人余りと戦わねばなりません。さらに区域内には女性や子供を含む多数の居留民がいます。ここに義和団や清国軍が乱入すれば、どんな事態となるかは明白でした(ほどなく義和団は清国軍に編入されています)。
全面対決を決めた各国公使は、北京籠城の総指揮官として軍人出身の英国公使マクドナルドを選びます。このマクドナルドが注目し、多大な信頼を寄せたのが日本陸軍の柴五郎中佐でした。当時は白人が東洋人の指揮を受けるなどあり得ないことでしたが、マクドナルドは五郎の才幹を見抜き、イタリア、フランスなど5カ国の兵を預け、要地である粛(しゅく)親王府の守備を託すのです。また粛親王府には、義和団の殺戮から逃れてきた3000人を超える中国人キリスト教民が保護されていました。備蓄食糧も少ない中で彼らを保護することは大きな決断が必要でしたが、五郎は彼らを見殺しにはできないと即決したといいます。
6月20日から始まった戦闘で、清国軍は大砲で公使館を砲撃、炎上させ、徐々に中心部へと迫りました。さらに猛暑と食糧・武器弾薬・医薬品の不足に籠城側は苦しみますが、女性も、非難してきた教民も力を合わせて防ぎます。その中で一際目立ったのが、最新の情報で戦術を組み立て、僅かな人数を巧みに配置して敵を撃退し続ける五郎の指揮でした。実はそんな五郎には、密かに心に期するものがあったのです。
安政6年(1859)、五郎は会津藩士・柴佐多蔵の子に生まれます。そして慶応4年(1868)、10歳の時に、会津戦争で祖母・母・兄嫁・姉・妹の5人が城下の屋敷で自刃するという悲劇に直面しました。さらに12歳の時に父や兄とともに斗南に移住し、朝敵の汚名と飢餓地獄を味わっています。そうした生活の中で五郎が誓ったのは、「会津戦争のあの時、自分は何の働きもできなかった。もう二度と、弱き者をそんな目に遭わせたくない」ということで、その思いが五郎を軍人の道に進ませていました。そして北京籠城に際し、五郎が心中誓っていたのは、「今度こそ守り抜く」という決意だったのです。
7月下旬には敵の戦死者から弾丸を奪って補充する状況でしたが、五郎らに協力する清国人の商人らも現われ、彼が連絡役となって天津にいる連合国混成部隊に戦況を報せることができました。そして8月14日、ようやく連合国の援軍が北京に到着し、包囲する清国軍を撃退して、北京を開城させるに至るのです。この籠城戦勝利について、公使館の総指揮官マクドナルドは、「北京籠城の功績の半ばは、とくに勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と明言し、ロンドン・タイムズの特派員フレミングは「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった」と語りました。実際、この出来事が日英同盟締結を大きく前進させることになるのです。
しかし五郎はその後、自分の功績については一切触れず、作戦の失敗については全責任を負いました。まさに武士です。
更新:11月22日 00:05