2017年08月12日 公開
2023年04月17日 更新
1911年(明治44)8月12日、ジュール・ブリュネが没しました。フランス陸軍の士官で、徳川幕府の要請を受けて来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して戦ったことで知られます。
ブリュネは1838年(天保9)、フランス東部アルザス地方のベルフォールに生まれました。天保9年生まれというと、日本では後藤象二郎、山県有朋、桐野利秋らと同い年です。エコール・ポリテクニーク(理工科学校)を卒業後、陸軍士官学校、陸軍砲兵学校を経て、陸軍砲兵少尉に任官。 1862年(文久2 )にメキシコ戦役に参加して武功を立て、24歳の若さで第5等レジョン・ド・ヌール勲章を授与されました。
1866年(慶応2)、ナポレオン3世は徳川幕府からの要請を受けて、日本に軍事顧問団を派遣することを決めます。隊長はシャルル・シャノワンヌ参謀大尉で、28歳のブリュネ砲兵中尉は副隊長に選出されました。士官6人、下士官13人から成る軍事顧問団は1867年(慶応3)1月、来日。幕府伝習隊に対して、歩兵、砲兵、騎兵の伝習に努めます。 しかし、伝習開始から1年も経たぬうちに幕府は瓦解、旧幕府軍は1868年(慶応4)1月の鳥羽伏見の戦いで新政府軍に惨敗を喫しました。 この内乱において、フランス軍事顧問団は本国より、中立の立場をとるよう命じられ、さらに新政府軍より国外に退去することを求められます。
しかし、ブリュネにすれば1年に満たないとはいえ、自ら鍛えた教え子たちが実戦に巻き込まれるのを見捨てて、日本を去るのは忍びないという気持ちがありました。そしてフランス公使が軍事顧問団の帰国を決定する中、ブリュネは8月に横浜で開かれたイタリア公使館の仮装舞踏会に武士の扮装をして出席し、そのまま帰隊せず、カズヌーブ伍長とともに榎本武揚率いる旧幕府艦隊に身を投じます。本国からの命令に背くものでしたが、武人としてのブリュネの決断であったのでしょう。
ブリュネは事前に上官シャノワンヌの机に、退役届けを置いてきています。シャノワンヌもブリュネの心情を理解し、見て見ぬふりをして止めなかったといわれます。 また、脱隊はブリュネとカズヌーブだけでなく、榎本艦隊が仙台に寄港した折、フォルタン、マルラン、ブッフィエの3人の軍曹が合流しました。つまり19人の顧問団のうち、5人が脱退し、旧幕府軍とともに戦う道を選んだのです。
榎本艦隊が箱館に入ると、ブリュネは榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国設立を支援するとともに、陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して、箱館の防衛を固めました。この時、4個の列士満(レジマン、フランス語で連隊)を置き、それぞれの指揮官に4人のフランス人下士官を充てています。榎本ら旧幕府軍の蝦夷地制圧に、彼らも大いに働いたことでしょう。また箱館では、さらに5人のフランス人が合流しました。海軍を脱走したニコールとコラッシュ、元海軍のクラトー、元陸軍出身らしいトリポー、そして商人のブラディエです。そして新政府軍艦隊の甲鉄を奪取すべく、榎本艦隊は宮古湾で海戦を行ないますが、この時、甲鉄に接舷して斬り込むアボルダージュ戦術を進言したのは、ニコールでした。 ニコール、コラッシュ、クラトーは宮古湾海戦に参加し、コラッシュは捕虜となっています。
明治2年(1869)4月、新政府軍が北海道に上陸。 ブリュネは箱館北方の守りとして、七飯(ななえ)台場を築き、各地で戦闘指揮にもあたりますが、数に勝る新政府軍の前に旧幕府軍は五稜郭へと追い詰められていきます。 そして新政府軍が箱館総攻撃を開始する10日前の5月1日、榎本武揚の説得を受けて、ブリュネをはじめとするフランス人たちは、箱館港内のフランス船に脱出しました。その後、日本を離れたブリュネはフランスに送還され、裁判にかけられますが、本国に迷惑のかからぬよう退役届けを出していたことで世論は好意的であり、軍に復帰することを得ました。その後、普仏戦争にも参加し、やがてかつての上官シャノワンヌが陸軍大臣になると、ブリュネはその下で陸軍参謀総長にまでなっています。
1895年(明治28)には明治政府から、勳二等旭日重光章を授与されますが、それを政府に働きかけたのは榎本武揚でした。恩返しの意味もあったのでしょう。
1911年8月12日、パリ近郊で没。享年74。晩年までシャノワンヌとともに、日本陸軍のフランス留学生の面倒をみたといいます。 なおブリュネは、映画「ラストサムライ」の主人公ネイサン・オルグレンのモデルであるともいわれます。
更新:11月22日 00:05