2017年07月19日 公開
2022年06月21日 更新
日本の鬼交流博物館
(京都府福知山市大江町)
治安元年7月19日(1021年8月28日)、源頼光が没しました。清和源氏の3代目で、摂津源氏の祖とされます。しかし一般に知られるのは、酒呑童子や土蜘蛛を退治した、「みなもとのらいこう」の英雄譚でしょう。
頼光は天暦2年(948、異説あり)、源満仲の嫡男に生まれました。20歳頃に出仕して東宮時代の三条天皇に仕え、次第に官職を得て財力を蓄えたといわれます。正暦元年(990)、43歳の時に藤原道長の側近となり、長保3年(1001)にはそれまでの備前守に加えて美濃守を兼任、任地の美濃に赴いたとされます。その後、左馬権守、正四位下に叙任されました。諸国の受領を歴任することで蓄えた財をもとに、たびたび藤原道長に進物を贈り、重んじられ、「朝家の守護」と称されます。
若い頃に、御堂の側で寝ている狐を、東宮の命で蟇目の矢で射て、命中させたという話が伝わりますが(『今昔物語』)、頼光は合戦に出る機会もなく、武張った話は史実の上では多くありません。おそらく頼光の実像は、摂関家に臣従した「護衛役」としての武士であったのでしょう。
では、酒呑童子の話は全くのフィクションかというと、必ずしもそうではなく、たとえば京都府宮津市の成相(なりあい)寺には、「此の度当国大江山夷賊追討の爲勅令を蒙る」と記した頼光の寛仁元年(1018)の願文が残っています。果たして頼光が願文にいう「大江山夷賊」とは、何者だったのでしょうか。
『酒呑童子絵巻』などによれば、摂関家が栄華を極めていた一条天皇の頃、京の都から姫君が次々とさらわれました。陰陽師・安倍晴明によって、これは大江山に棲む酒呑童子のしわざと判明します。そこで一条天皇の命で、酒呑童子追討に向かったのが源頼光でした。頼光は配下に藤原保昌と、四天王と呼ばれる屈強な武士を連れています。すなわち渡辺綱、坂田公時、卜部季武、碓井貞光らです。坂田公時は、あの足柄山の金太郎でした。
一行はしかし、なかなか酒呑童子の大江山の城を見つけることができません。困っているところに不思議な老僧たちと出会います。 頼光らはこの時気づきませんでしたが、老僧らは住吉や八幡の神が姿を変えて加護に現われたものでした。老僧らは頼光一行に山伏姿に変装することを勧め、「神便鬼毒酒」という酒を渡します。これは鬼が飲めば毒酒に変わるという特別な酒でした。
山伏姿となった頼光らは、鬼ヶ城に至り、仲間になりたいと偽って鬼たちに迎えられます。鬼たちは一行のために宴を開きますが、出された肴はつけねから斬られた女の足でした。さらわれた姫君たちの変わり果てた姿です。頼光らは持参した酒を勧め、酒呑童子らが酔いつぶれたところを見計らって武装し、寝所を襲って、酒呑童子の首をはね、手下の鬼たちも討ち果たしました。
頼光らは戦利品として、その首を都に運ぼうとしますが、途中、丹波と山城の国境で地蔵尊から、「不浄の首を都に入れるのはよくない」と言われ、途端に首が重くなって持ち上がらなくなったため、その場に葬ります。それが丹波の老の坂でした。
酒呑童子とは何者であったのか、さまざまな説があります。一説には「シュテイン・ドッジ」という外国人で、食べていたとされる人肉と生き血は、獣肉とワインではなかったか、ともいわれます。しかし、当時の童子には鬼の意味も含まれますので、おそらくは山の中で暮らす人々、とりわけ産鉄民ではなかったか、という見方が有力です。
山伏の姿をしたら迎え入れられたというのも、山伏も山で生きる者として彼らと近い関係にあったからでしょう。そして鉄は武器や工具の原料として、朝廷にすれば管理下に置きたいものでした。おそらく頼光の役目は、悪鬼を討つというより、産鉄民を力でねじ伏せ、鉄を奪うものであったのかもしれません。一説に頼光の父・満仲は、多田銀山開発に関わったといいますから、鉱山に関する知識を頼光も持っていた可能性があります。
酒呑童子は最期に「鬼に横道はなきものを」と言葉を吐いて、首になって頼光の兜に噛み付いたといいます。これは「自分は道に外れたことはしていない。道に外れているのはお前たちではないか」と受け取れます。 何となく酒呑童子が、陸奥の安倍貞任や藤原経清にかぶって見えてきてしまいます。
更新:11月23日 00:05