2017年07月12日 公開
2021年09月08日 更新
桑名城址九華公園(三重県桑名市)
明治41年(1908)7月12日、松平定敬が没しました。高須4兄弟の末弟で、会津藩主・松平容保の実弟として知られます。
弘化3年(1847)、定敬は美濃高須藩・松平義建の8男に生まれました。容保の11歳年下になります。 高須4兄弟とは、義建の他家の養子に入った4人の息子たちのことで、慶勝、茂徳が尾張藩主、容保が会津藩主、定敬が桑名藩主になっています。
安政6年(1859)、定敬は14歳で婿養子として桑名藩に入り、藩主となりました。文久3年(1863)には将軍家茂の上洛に随行しています。元治元年(1864)、18歳の定敬は京都所司代に任ぜられました。会津藩主の兄・容保が京都守護職として京の治安を守るのを、サポートするかたちとなります。兄弟が力を合わせて京都を守るという、幕府の粋な(?)計らいであったようです。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍の一翼を担って戦いますが、敗北。 徳川慶喜によって兄・容保とともに無理やり大坂城から江戸に向かわされた定敬は、国許の桑名城が新政府軍を前に無血開城したため、飛び地の越後柏崎に移り、寺で謹慎しました。 しかし、会津藩の恭順嘆願が新政府軍に退けられ、兄・容保が徹底抗戦の意思を示すと、定敬も恭順から抗戦に転じて、会津の兄を助けることに決します。定敬も容保と同様、京都の治安維持に努力したにもかかわらず、朝敵にされた無念を強く感じていたでしょう。そして柏崎を抗戦派の拠点として、雷神隊、風神隊、致人隊を編成、他の旧幕府軍と協力して北越戦争で奮戦しました。特に雷神隊を率いた立見鑑三郎尚文の活躍はよく知られています。
しかし越後戦線に利なく、会津の兄・容保のもとに駆けつけた後、脱出を勧められ、米沢、仙台を経て、榎本武揚の艦隊に合流して箱館に渡りました。箱館戦争が終結する一月前、従者とともに上海に向かい、さらに外国への脱出を図りますが、資金が不足して断念。横浜に戻って降伏しました。それからの定敬は、自分のために戦って命を落とした家臣たちを弔って過ごします。その思いは、終生続いたようです。
明治6年(1873)、赦免された定敬はアメリカ人宣教師ブラウンに英語を学び、その英語塾を支援します。翌年、定敬は渡米しました。 明治10年(1877)、西南戦争が起こると、定敬は旧家臣たちとともに、自ら出征して戦います。従った旧桑名藩士は400人にものぼったといわれます。これによって桑名の名誉を回復し、戊辰戦争で戦死した家臣らに報いたいと思ったのかもしれません。
明治27年(1894)、48歳の時に、兄・容保の跡を継いで日光東照宮宮司に就任、2年間務めます。 明治41年(1908)、定敬没。享年62。死の前日、特旨をもって従二位に叙せられました。
更新:11月22日 00:05