歴史街道 » 姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦
2017年06月28日 公開
2022年06月15日 更新
姉川古戦場跡碑(滋賀県長浜市野村町)
元亀元年6月28日(1570年7月30日)、姉川の合戦が行なわれました。織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉景健連合軍の戦いとして知られます。
合戦の2カ月前、越前朝倉領に攻め込んだ信長に対し、妹婿の浅井長政は、長年の朝倉との交誼を重んじ、信長軍の背後を衝きました。挟み討たれる格好となった信長は、命からがら脱出します。いわゆる「金ヶ崎の退き口」です。姉川の合戦はその報復として、信長が浅井・朝倉に挑んだ戦いでした。金ヶ崎にも参加して、信長に置いてきぼりをくった家康も、律儀にも再び信長の要請に応じて5000の三河兵を率いて駆けつけています。
軍勢の数については諸説ありますが、織田1万~1万5000、徳川5000、浅井8000、朝倉1万と、やや織田方が上回る程度ではなかったでしょうか。 両軍は小谷城南方の姉川を南北で挟んで睨みあいます。東の織田軍の正面には浅井軍、西の徳川軍の正面には朝倉軍。1万の朝倉相手では家康にとって不利ですが、家康が自ら志願したといわれます。律儀さと、三河兵の強さを信長に印象づけるためでしょう。さらに織田軍の東には浅井方の出城・横山城があり、織田方が城を囲んで動きを封じています。
姉川にかかる野村橋
28日早朝、戦端は徳川軍の酒井忠次らの攻撃で開かれました。浅井軍は磯野員昌らを先頭に、織田軍に猛攻を仕掛けます。背水の陣の覚悟の浅井軍の前に、織田軍は備えを次々に破られ、一説に十三段の備え中、十一段まで破られたとも、また木下秀吉隊は竹中半兵衛の献策で備えを固めていたため、浅井勢の攻勢を食い止めたともいわれます。しかし、完全に押され気味でした。
一方、朝倉軍と激闘を続ける徳川軍は劣勢ながら敵を圧倒し、さらに一計を案じた家康が、榊原康政の隊に敵の横腹をつかせて、朝倉軍を壊乱させます。たまらず朝倉軍が後退する中、徳川軍に加勢に来ていた稲葉一鉄隊が、急ぎ織田軍の救援に向かい、また横山城を囲んでいた部隊も援軍に駆けつけます。これらの加勢が織田軍に深入りして本陣を目指す浅井軍を横から襲うかたちになり、さしもの浅井軍も名のある武将を次々と討ち取られて退却。最終的には織田・徳川連合軍が、敵将兵1100余りを討ち取って勝利しました。
とはいえ、信長も一気に小谷城攻めにかかれるほどの余力はなく、出城の横山城を奪って、ここに木下秀吉を入れ、浅井方の南下を防ぎます。しかし浅井・朝倉ともにまだ致命傷を負ったわけではなく、三好、比叡山、本願寺、武田らと結んで「信長包囲網」を形成し、信長にとっては苦しい戦いが、しばらく続くことになります。
更新:11月23日 00:05