2017年06月25日 公開
2022年06月15日 更新
函館ハリストス正教会
大正2年(1913)6月25日、沢辺琢磨が没しました。坂本龍馬と同い年の従兄弟で、ハリストス正教会の日本人初の司祭として知られます。
琢磨は天保6年(1835)、土佐藩郷士・山本代七の長男に生まれました。通称、数馬。 父・代七の弟・八平は土佐郷士の坂本家に養子に入り、生まれた次男が龍馬です。つまり琢磨と龍馬は従兄弟同士でした。 また琢磨の母親は、武市半平太の妻・富子の叔母にあたり、琢磨は武市家とも親戚になります。 琢磨は剣術の腕が立ち、江戸に出て鏡心明智流桃井道場の師範代を務めました。ところがある日、仲間と飲酒しての帰り道、路上で金時計を拾って不正に売却したことで罪に問われ、龍馬や半平太らの協力で藩邸から逃亡します。
諸方を放浪した末、たまたま出会った前島密の勧めで、ともに箱館に渡りました。 ある日、船宿に押し入った賊を撃退したことで剣の腕を見込まれ、剣術道場の師範に迎えられて、箱館で多くの知己を得ます。やがて箱館神明宮の宮司・沢辺悌之助の娘婿となり、沢辺姓と神職を継ぐことになりました。
元治元年(1864)、30歳の琢磨は箱館に渡ってきた22歳の若者と知り合います。 若者の名は上州安中藩士・新島七五三太(しめた)。新島は英語を学びたいとロシア領事館付の司祭・ニコライ・カサートキンの館に住み込んでいました。しかし、新島の真の望みが渡米であることを打ち明けられた琢磨は、それならばと英国商人ポーター商会に勤める福士宇之吉を紹介します。福士と琢磨は協力して、新島の密航の手助けをし、6月15日、箱館港から無事に新島を出発させました。もし密航が発覚すれば、新島も、協力した琢磨や福士も死罪になることを覚悟の上です。この新島はいうまでもなく、後に同志社を創立し、山本八重の夫となる新島襄でした。
その後、琢磨は新島が寄宿していたロシア人司祭ニコライに接し、心服するようになります。そして慶応4年(1868)4月、神職の身ながら洗礼を受け、日本ハリストス正教会の信者となりました。 当時はまだキリスト教は禁教下でしたが、琢磨は洗礼を受けたことを公言し、妻子とともに神明宮を去ります。そして伝道を始めますが、たびたび捕縛され投獄されました。
明治6年(1873)、明治政府が禁教を解くと(正式に活動を認めるのは1899年)、琢磨は再び伝道に努め、明治8年(1875)には日本人初の司祭となります。 司祭就任後は東北地方(宮城県佐沼、岩手県一関、福島県白河)の伝道に尽力。明治17年(1884)、東京神田に師のニコライが東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建設を始めるとこれに協力しました。大聖堂の高い尖塔が皇居を見下ろすのは不敬であると、右翼が建設を妨害しようとしますが、若い頃から剣を鍛えた琢磨が現われると、その凄みに右翼たちは退散したといいます。
その後、白河から東京に移り、四谷洗礼教会の司祭となって、30数年奉仕し、大正2年6月25日、長男のアレキセイ・沢辺悌太郎神父に看取られながら、息をひきとりました。享年79。 師のニコライが没した翌年のことで、その跡を追うような最期でした。
更新:12月12日 00:05