2017年05月18日 公開
2023年12月21日 更新
寛政7年5月19日(1795年6月26日)、長谷川平蔵宣以(のぶため)が亡くなりました。火付盗賊改の長官として、小説『鬼平犯科帳』でも知られます。
延享3年(1746)、平蔵は400石の旗本・長谷川宣雄の嫡男に生まれました。「平蔵」の名乗りは長谷川家当主代々の世襲ですが、ここでは便宜的に平蔵で通します。幼名は銕三郎(てつさぶろう)。19歳の時に父親の屋敷替えで築地から本所に移ると、放蕩無頼の平蔵は「本所の銕」などと呼ばれ、暴れ者で知られました。
23歳の時に10代将軍徳川家治に御目見えし、長谷川家相続人として認められます。24歳頃に妻帯。父親の宣雄は火付盗賊改役を経て、安永元年(1772)に京都西町奉行に任ぜられたため、平蔵も妻子を連れて京都に赴きました。しかし翌年、宣雄は死去。平蔵は江戸に戻って家督を継ぎます。30歳の時でした。
その後、平蔵は西の丸書院番をはじめ、39歳で西の丸御徒頭、41歳で御先手組弓頭と昇進し、火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787)、42歳の時のことです。当時は放火や強盗など犯罪が凶悪化し、盗賊も武装して町奉行所の捕り方では手に負えなくなりつつありました。そこで番方(武官)の御先手組が任ぜられたのが、町人に限らず武士でも検挙でき、凶悪な犯罪者を武力で制圧する火付盗賊改であったのです。
火付盗賊改役としての平蔵の活躍は目覚しく、寛政元年(1789)には関八州を荒らし回っていた盗賊の神道徳次郎一味を一網打尽にし、寛政3年(1791)には凶悪な強盗を繰り返していた葵小僧を捕縛し、処刑しています。
その辣腕、指揮能力もさることながら、捜査において重要な情報収集では、「本所の銕」時代に培った裏社会とのつながりも大きく影響したようです。
平蔵を火付盗賊改に抜擢したのは老中首座の松平定信でしたが、元来堅物で汚れたことを嫌う定信は、平蔵の型破りな清濁併せ呑むやり方を快く思わず、その関係は微妙であったといわれます。しかし平蔵はひるむことなく、多くの凶悪犯を検挙し、悪党からは「鬼」と呼ばれ、庶民からは「今大岡」などと親しまれました。
その一方で、平蔵は犯罪者たちに人間的な視線を向けます。平蔵が役目についた天明年間は、歴史的な飢饉が諸国を襲っており、やむなく農地を離れ無宿となって江戸などに流れ込み、犯罪に手を染める者が少なくありませんでした。また、いったん悪事に手を染めた者がまっとうな道に復帰することの難しさも、若い頃の無頼な生活で平蔵自身がよく知っています。
「罪人を捕縛するだけでなく、罪人を生み出さぬことこそが肝要ではないのか」。そう思い至った平蔵が幕府に献言したのが、「石川島人足寄場」でした。すなわち犯罪者に手に職を与え、訓練する更正施設です。幕府はこれを認め、平蔵は人足寄場の責任者も兼任することとなりました。人足寄場では技術だけでなく、松平定信の発案で道徳教育も行なわれ、一定の成果を上げました。人足寄場の設置以来、犯罪者の数は減っていき、平蔵の功績を松平定信も認めるに至ります。
しかしこうした激務を8年間続けた平蔵は、寛政7年(1795)に自ら御役御免を願い出て、その3ヵ月後に病没しました。享年50。死の直前、11代将軍家斉より、懇ろな言葉を賜ったといいます。
更新:11月22日 00:05