2017年04月29日 公開
2019年03月27日 更新
慶長20年4月29日(1615年5月26日)、大坂夏の陣における樫井の戦いで、塙団右衛門が討死しました。豪勇の武将として知られます。
塙団右衛門は永禄10年(1567)、遠州横須賀に生まれたといわれます(諸説あり)。諱は直之。一説に織田信長の家臣・塙直政の一族ともいわれますが、詳細はわかりません。その後、羽柴秀吉の家臣・加藤嘉明に仕え、徒小姓から鉄砲大将になります。朝鮮出兵にも従軍し、文禄2年(1593)には嘉明の命を受けて熊川(ウンチョン)浦番船を奪取、抜け駆けした藤堂高虎の鼻を明かし、その功もあって350石の知行を与えられました。同じく文禄の役では、巨大な旗指物を背負って戦場を駆けたことで、その偉丈夫ぶりを称えられたといわれます。
ところが慶長5年(1600)の関ケ原合戦の折、鉄砲大将の身でありながら、自ら敵陣に先駆けしたことで嘉明の怒りを買い、「大将の器でない」と罵倒されて、34歳の団右衛門は加藤家を去りました。一説にこの時、城の門(書院とも)に「遂ニ江南(こうなん)ノ野水二留マラズ、高ク飛ブ天地一閑鴎(いっかんおう)」という即興の詩を書き付けていったといわれます。猛進型の武将と思われがちな団右衛門ですが、詩才も備えていたようです。
その後、小早川秀秋に1000石で仕え、秀秋の死後は松平忠吉、さらに福島正則に仕えますが、旧主・加藤嘉明の干渉(奉公構)により、長く留まることができません。やむなく出家して妙心寺の僧となり、鉄牛と称していた時期もありました。
慶長19年(1614)、大坂冬の陣の折には大坂に入城して大野治房に属し、池田忠雄や蜂須賀至鎮(よししげ)を攻撃します。特に蜂須賀勢に夜討ちを仕掛けた12月17日の「本町橋の夜襲」は有名で、本町橋の南に布陣する蜂須賀家の中村重勝隊を襲いました。この時、団右衛門は100人の銃卒を伏せさせ、20人という少数で夜襲をかけて、油断していた敵を大混乱に陥れたといわれ、中村重勝を討ち取りました。そして引き上げる際、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」という木札を兵たちにばら撒かせます。このため、団右衛門は「夜討ちの大将」として敵味方に知れわたることになりました。何としても功名を立てたいという思いからなのでしょう。 もっともこの夜討ちでは団右衛門は斬り込まず、大将として橋の上に床机を置いて指揮を執ったといわれます。なかなかの采配といえるかもしれません。
翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣。大野治房の下で、団右衛門は3000の兵を預かる大将となります。そして夏の陣の前哨戦ともいうべき大和郡山城攻撃に続き、4月29日、紀州から北上する浅野長晟(ながあきら)の迎撃に向かいました。 5000の浅野勢は経験豊富な亀田高綱と上田宗固が作戦を任されており、和泉岸和田まで北上したところで豊臣方の接近を知ります。亀田は樫井まで後退することを決断。一方、南下する団右衛門は、敵の動きよりも、同僚の岡部則綱が先鋒に選ばれていることに腹を立て、岡部よりも自分が先に出ることに気を取られていました。このため団右衛門は麾下の将兵を置き去りにして、駆けに駆けます。そして両者は先陣争いの勢いのまま、後退する浅野勢に突っ込みました。浅野勢を指揮する亀田高綱は、後退すると見せかけて敵をおびき寄せ、鉄砲隊で殲滅する作戦でしたが、団右衛門らの無謀ともいえる攻撃は予想外であり、一時は亀田の身も危うくなります。
とはいえ、麾下の部隊から突出してしまっている団右衛門らは少数に過ぎず、次々に鉄砲で狙撃されて斃れ、最後は団右衛門と淡輪重政の二騎だけとなって、団右衛門も乱戦の中で討ち取られました。享年、49。
夏の陣の大坂方の武将たちは、連携がうまくいかず、個々に討たれていった印象があり、総指揮官不在の弱さが露呈しているように感じます。 一方で、彼らは豊臣家のためというより、いかに武人として自分の最後を飾るかを戦いの主題としており、そうした点では致し方ないのかもしれません。 団右衛門の最期は、加藤嘉明の「大将の器でない」という言葉を裏付けるものとも解釈できますし、逆にその言葉を覆そうと彼なりに奮起した結果とも受け取れます。そんな団右衛門の稚気を感じさせる部分が、憎めない人柄のようにも感じられます。
更新:11月22日 00:05