2015年11月28日 公開
2023年01月11日 更新
田村元貞(内野聖陽)とハル(忽那汐里、映画「海難1890」より、以下同)
200を超える世界中の国のなかでも、突出した「親日国」として知られるトルコ。その背景にあった、ある「秘話」をご存知だろうか。明治23年(1890年)9月16日、和歌山県樫野崎(現、串本町)で起きた「エルトゥールル号海難事故」だ。
トルコの軍艦・エルトゥールル号は、日本から本国への帰国の途中、台風に遭遇して沈没、600人以上もの乗組員が海に投げ出された。その時、69人のトルコ人の命を救ったのが、樫野崎の日本人だった。そしてトルコ人はこの時の「恩」を、時が経ても忘れず、95年後のイラン・イラク戦争の際に「恩返し」をしてくれたのだった…。
今回、この知られざる逸話の映画化を自ら企画し、メガホンを取ったのが、「利休にたずねよ」などで知られる田中光敏監督だ。田中監督に、映画「海難1890」に込めた想いを伺った。
――今作を企画したきっかけから教えていただけますでしょうか?
10年以上前、串本の田嶋(勝正)町長から、「是非、映画にして欲しい」という手紙をいただき、以降、エルトゥールル号海難事故を後世に伝えたいという想いを抱き続けていました。とはいえ、田嶋町長は大学(大阪芸術大学)の同窓ですが、最初に手紙をもらった時は「えらい話をもちかけられた」と思いましたね(笑)。素晴らしい話であることは、疑いようがない。ですが、1つの映画をつくることは、本当に大変なことです。
それでも、手紙から田嶋町長の熱い想いが伝わってきたこと、そして、私なりにエルトゥールル号海難事故について色々と調べていくなかで、これは海難事故で終わる話ではなく、むしろ「海難事故から始まった話」であると分かり、心が動きました。
すなわち、このエルトゥールル号海難事故以降、日本とトルコは永年にわたり友情を紡ぎ続け、やがて1985年のイラン・イラク戦争の際のテヘランにおける、トルコ人による日本人の救出劇へとつながっていく…。こうした話に触れて、「いつかは必ず、この手で撮りたい」と思うようになりました。
――そこから、具体的に映画化を進めていかれたのですね。
あと印象に残っているのが、5、6年前に串本を訪れた時のことです。当時、串本ではすでに私を監督に迎えて映画をつくろうという機運が高まっており、私を招いて、過去の作品の上映会を催してくれました。その時、「監督、5分だけ時間をください」と壇上に上がってこられたのが、テヘランで実際にトルコ人に救出された沼田準一さんでした。
沼田さんは、600人ほどの町民の前に立つと、泣きながら「ありがとうございます…」と頭を下げられました。当時、私は沼田さんのご体験を存じ上げる前でしたから、「何が起きているんだろう」と驚きました。すると沼田さんは、「私は、1985年、テヘランで救われた日本人です」と語るのです。
それでも、「目の前にいるのは、あくまでエルトゥールル号海難事故に関わった方の『子孫』なのに」と私は感じましたが、沼田さんは「どうしてもお礼を言いたくて、お時間をいただきました」と涙を流しました。私にとって、ものすごい衝撃であり、まるで映画のワンシーンを見ているかのようでした。「ああ、この史実を伝えなきゃ」と改めて感じた出来事でしたね。
――日本・トルコ合作ということもあり、準備で幾度もトルコに足を運ばれたと伺いました。
トルコ政府の方々は、皆さんがエルトゥールル号海難事故をご存知でした。また、40代以上の年配の方々も、やはり学校の授業などで習っていたようです。ラストシーンでは大勢のトルコ人にご参加いただきましたが、半分以上の方は事故のことを知っていましたよ。
私は、日本とトルコが一緒になって、エルトゥールル号海難事故と、イラン・イラク戦争の際のテヘランの「2つの救出劇」を映画にすると説明すると、皆さん、「俺たちが、日本人のことをなぜ好きなのか。その根源にある話が映画化されるのは心から嬉しい」と声を揃えてくださいました。もちろん、トルコ国民全員が知っている話ではないようです。それでも、現地の方々の想いは、日本人スタッフ全員が肌で感じたところです。
イラン・イラク戦争の際、テヘランに残された日本人を救ったのは、トルコ人だった
――トルコでの印象的なエピソードはありますか?
私自身、この先も、ずっと覚えているであろう光景があります。現場のトルコ人エキストラは、その日の撮影が終わると「自分たちはお金はない。だけど感謝の気持ち、ありがとうの気持ちを表わしたい」と、折り紙のように、トイレットペーパーでチューリップ(トルコの国の花)を作って、「ありがとう、ありがとう」と言いながら現場を後にしました。それも、1日だけではなく、連日です。
「え、何これ?」「今日も置いていってくれているの?」と、日本人スタッフが驚きを隠せなかったのは、言うまでもありません。トルコ人のエキストラの方々も、撮影中によそ見をする方は、1人としていませんでした。その姿を見ていると、胸が熱くなりましたね。
――トルコの方々の、この映画に賭ける想いが伝わってきますね。
ただ、そうした姿は、トルコのみならず、串本の皆さんも同様でした。私は今回、トルコの方々に、実際の串本の海を見て欲しいと考え、海難事故が起きた現場での撮影を行ないました。そこで、串本の方々にもエキストラでご参加いただいたのですが、「このシーンは皆さん、笑顔でお願いします」と私が説明しても、「監督、無理やで」と言うのです。「おいらは、ここに立っているだけで感動してしまって、ワンカットずつ涙が出るんだ。笑顔なんて無理やわ」と。
現地において、海難事故と、その後のトルコとの友好がしっかりと伝え続けられてきたからこそ、串本の方々も特別な感情が湧き上がってきたのでしょう。
更新:11月24日 00:05