2015年07月21日 公開
2023年01月16日 更新
全生庵の山岡鉄舟墓
薩摩藩士・益満が同行するとはいえ、新政府軍が充満する東海道を静岡まで赴くのは、相当に危険であるのはいうまでもありません。ところが鉄太郎は、新政府軍陣営の前を通る時には必ず大声で、「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と名乗り、逆に新政府軍側はあっけにとられたといいます。
無事に静岡に至り、参謀の西郷吉之助に面会した鉄太郎は、慶喜の意向を朝廷に取り次いでほしいと頼みます。西郷は条件として、5つの項目を提示しました。
その項目とは、
一、江戸城を明け渡す
一、城中の兵を向島に移す
一、兵器をすべて差し出す
一、軍艦をすべて引き渡す
一、慶喜は備前藩にあずける
これについて鉄太郎は、最後の一条、慶喜を備前藩に預けることだけは承服致しかねると拒みました。
西郷が「これは朝命でごわす」と凄むと、鉄太郎は「ではもし慶喜の立場に島津公が置かれたとして、こうした命令を家臣が受けて、貴公は武士として承服できると申されるのか」と問い、驚いた西郷は心中、納得します。
結果的に西郷は鉄太郎の人柄を信頼し、なるべく穏便に江戸開城が行なわれるようにと、気持ちを切り変えるのです。勝との談判の前に鉄太郎が果たした功績は、江戸無血開城を導く上で極めて大きかったといえるでしょう。
「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬという人は始末に困る」とは、西郷が鉄太郎を評した言葉であるといわれます。西郷自身にも当てはまる言葉ですが、同じ気質であるだけに、西郷は鉄太郎から感じるものが大きかったのかもしれません。
いわば鉄太郎と西郷の精神的な共鳴が、新政府の方針を変えさせたといっても過言ではなさそうです。それほどすべての執着を捨ててかかり、大役に臨んだ鉄太郎にして、しかしながら、いまだ剣の師・浅利に歯が立たないのはなぜなのか。非常に興味深いところです。
鉄太郎の剣が変わるのは、明治13年(1880)3月30日の暁闇のことでした。
翻然と悟った鉄太郎は、竹刀をとって師と向かい合い、その構えを見た瞬間に浅利は、一刀流正伝の印可を与えたといいます。時に鉄太郎45歳。
あるいは心に重くのしかかっていた師の幻影を、幻影にすぎないことに気づいた瞬間であったのでしょうか。悟りの境地とは、その人にしか悟れないものであり、想像もつきません。
8年後、病を得て死期を悟った鉄太郎は、見舞いに駆けつけた勝海舟に向かって「積年の用事も済んだ。お先に御免つかまつる」と告げると、浴室で病身を清め、白衣に着替えて、結跏趺坐〈けっかふざ〉したまま息をひきとりました。享年53。
無我の境地とはよくいいますが、それはおそらく理屈では答えの出るものではないのでしょう。鉄太郎ほどの人物でも、翻然と悟るまでには長い時間がかかりました。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ」「とらわれをなくす」…すべてを捨てた時、はじめて得られるものがあるのかもしれません。
更新:11月22日 00:05