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吉田松陰の江戸送りと涙松

2015年04月20日 公開
2022年11月14日 更新

『歴史街道』編集部

こんにちは。今日は平成27年(2015)4月20日(月)です。今日は全国的に雨が強まるようです。

昨晩の大河ドラマ「花燃ゆ」では、吉田松陰が江戸へ召喚されることになり、兄を死なせたくない文と、自分の志を述べる覚悟を固めた松陰、そしてそんな松陰を理解し、送り出そうとする周囲の人々が描かれました。とても印象に残る回でした。

今回は史実を踏まえつつ、松陰の江戸送りのくだりをご紹介してみます。

幕府から長州藩江戸藩邸へ、松陰の身柄を差し出すよう命令が下ったのは、安政6年(1859)4月20日のことでした。この報せはすぐに国許に伝えられ、野山獄にいる松陰に伝わったのは5月14日、獄を訪ねて来た兄・杉梅太郎を通じてです。

それを聞いた松陰は、あまり驚かなかったといいます。幕府は召喚する理由を明らかにしていません。松陰は、もしそれが老中暗殺計画であったとしても、未遂であれば罪はないと自分なりに解釈していたともいいます。しかし召喚理由が暗殺計画の嫌疑であれば、まず生きては帰れません。

松陰も、生きては帰れぬ覚悟を固めていたでしょう。萩出立は10日後の5月25日。この間、藩政府は松陰が江戸で余計なことをいわぬよう、何度も念押しをしたといいますが、松陰自身はこの機会に幕府に言うべきことを言いたいと考えていたようです。

もちろん、藩に迷惑はかけられないと松陰も考えていますから、「この身が微塵に砕かれても、藩政府に咎が及ぶようなことはしない」と藩に伝えはしましたが、しかし一方で、「至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり」という信念は揺らぎません。

藩も自分も朝廷を尊び幕府を敬い、ひとえに日本のためを思っている。もし幕府がそれを誤解し、あるいは幕府の考え方が間違っているのならば、堂々と主張してこれを正したい。至誠をもって説けば、幕府も必ずわかってくれるはずだ…。松陰はそう信じたのです。

下田で黒船密航を図った時、幕府は松陰の志に一定の理解を示し、国禁を犯したかどで死罪になってもおかしくないところ、国許での蟄居で済ませました。あるいはこの時の経験が松陰に、幕府も話せば自分の志をわかってくれるだろうという感覚を抱かせたのかもしれません。

江戸に送られる前日の24日夜、松陰は司獄・福川犀之助〈さいのすけ〉の独断で、短時間ながら帰宅が許され、家族や門人たちと最後の別れをします。後に福川はこの独断を咎められ、10日間の謹慎に処せられました。

杉家では母・滝が仏壇に燈明をあげ、「無事に帰れるように手を合わせなさい」と松陰に促し、松陰も素直にこれに従ったといいます。また入浴する松陰の背を、滝が流しながら言葉を交わしました。昨晩のドラマでもこの場面は、涙を誘われました。

また杉家に集まった門人たちは、松浦亀太郎が描いた松陰の肖像画に、自賛を請います。松陰も亀太郎が描いた絵に「われもし磔されるとも、この幅すなわち生色あらん」と、この絵に自分の心が宿っているとする最大限の賞賛を送りました。

さらに、野山獄で再会した高須久子のことも見逃せません。江戸へ死出の旅に立つ松陰に、久子は餞別にと手布巾を贈りました。松陰は「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きして和歌を詠みます。

箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん

一方、久子が松陰に贈った別れの相聞の句は、

手のとはぬ 雲に樗〈おうち〉の 咲く日かな

すると松陰は「高須うしに申し上ぐるとて」として、最後に次の一句を詠んでいます。

一声を いかで忘れん ほととぎす

松陰にとって、高須久子も忘れがたい存在であったことは間違いないのでしょう。

5月25日(現在の6月25日)早朝、前夜来の雨の中を、網をかけた駕籠に乗せられた松陰は、30人というものものしい人数とともに、江戸へと向かいます。

萩城下を出て、涙松に差し掛かった時、松陰は頼んで駕籠を下り、雨に煙る萩城下に別れを告げました。そこで万感の思いを込めて詠んだのが、次の句であるといわれます。

帰らじと 思いさだめし旅なれば ひとしほ濡るる 涙松かな

松陰一行が江戸に到着するのは、ちょうど1ヵ月後の6月25日のことです(辰)

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