2015年02月27日 公開
2022年06月15日 更新
《『歴史街道』2015年2月号より》
「尊兄一人、何卒割拠を御主張になられ、四君の任を一身に担当になられ候程の御尽力。伏して望み候」。
禁門の変の際、天王山に追いつめられた広田精一は、久坂や入江、そして己の志を高杉晋作に託して自刃した。師の仇敵を抱える幕府は、かけがえのない盟友たちの仇敵ともなった。「もはや我らの手で切り拓くしかない」。高杉は僅かな手勢を率い、起死回生の決起に踏み切る。
元治元年(1864)7月19日、京都の御所周辺で展開した長州藩と公武合体派との戦闘(禁門の変)で、長州藩を担う久坂玄瑞ら多数の俊英が戦死した。2日後、追討軍の包囲が狭まる中、京都南の天王山中で、久留米の神官・真木和泉はじめ、長州軍とともに出戦した20数名の諸藩出身者が切腹して果てた。
その1人に、宇都宮出身の広田精一という活動家がいた。前年に脱藩し、長州軍に接近した男で、その年5月の下関での異国船砲撃にも加わっていた。
広田は、切腹直前、1通の遺書を書いている。高杉晋作に宛てたものだ。
「…今度の義挙大敗(中略)河野(久坂玄瑞)、牛敷(寺島忠三郎)、入江(九一)、来翁(来島又兵衛)討死。所詮尊兄一人、何卒割拠を御主張になられ、四君の任を一身に担当になられ候程の御尽力、伏して望み候。(中略)昨日の戦争、平日操練の形に振り回し候者一人もこれ無く、会(津)の兵法に及ばざる事遠し、これらの弊、急速御一洗、号令を厳にし、兵士を精選する事御担当、兎角何事も御一身に任ぜられ候よう、伏して望み候」(『第一人者久阪玄瑞』)
当時、高杉は脱藩罪で藩内に拘束されていたが、師・吉田松陰の兄・杉梅太郎に宛てたとみられる手紙で、次のように認めている。
「…世上の風説には、秋湖兄(久坂)、宍翁(宍戸左馬之助)など忠死と申す事(中略)この節は毎夜、秋湖兄を夢に見候…」(『萩市郷土博物館研究報告』九号)
松陰は晩年の著述『己未文稿』に多くの門下生評を残しているが、門下双璧とされる高杉と久坂を「人の駕馭〈がぎょ〉を受けざる(恣意のままに動かされぬ)高等の人物なり」と絶賛した。また、昭和14年(1939)に97歳で没した松下村塾出身の渡辺蒿蔵は。
「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、高杉にはどうもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し』(『松陰門下の最後の生存者渡辺翁を語る』)と語り残している。
そんな激烈な高杉は、絶えず安否を慮り続けた人望家の盟友の死を、隔絶された郷里で知った。やがて届けられた広田精一からの遺書が、そんな高杉にどれほど大きなインパクトを与えたかは想像に難くない。
安政6年(1859)11月、師の松陰が処刑された1月後、高杉は藩重役の周布政之助への手紙に「我が師松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。(中略)仇を報い候らわで安心仕らず候」と記している。師の仇敵を抱える幕府はついに、かけがえない盟友たちの仇敵にもなったのである。高杉は、もはや幕府に対して些かも信頼を置かずに、自分たちの手で新たな日本を切り拓こうとの決意を固める。亡き者たちの無念の払拭と軍事の拡充という広田精一からのメッセージは、高杉を「維新」へと突き動かし、それからの長州藩の激動と彼がそこに身を置く指針となる。
前年の8月18日の政変に続き、禁門の変と2年続けて京都から排除された長州は、さらなる重荷を負う。長州を危険視する幕府が「長州征伐」の方針を具体化させていくのだ。
こうした幕府の動きを受けて、長州藩内は激動した。
禁門の変の翌月、前年に受けた砲撃の報復として、異国船が馬関に到来、猛攻を見せた末に、藩砲台を完全に制圧した。高杉晋作が主導した和議交渉と並行し、藩内では、「俗論派」とも称される佐幕派勢力が台頭する。彼らは、禁門の変の際に上京した国司信濃ら3家老を切腹させ、さらに4名の参謀を処断、幕府への恭順姿勢を示した。
これに加えて、幕府軍は長州に対し、藩内に滞留する三条実美ら5名の公家の身柄の移管と、山口の藩城の棄却、そして藩主父子の謝罪状提出を条件に撤兵した。
この折、幕府の征討軍参謀として実務を担っていたのが薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)だった。かねてから薩摩藩は、公武合体派として会津藩らと長州排斥の前線にいたのである。
しかし禁門の変以降は、次第に幕府と一線を画す態度を見せるようになる。ひとつ、薩摩の幕府に対する態度が分かる逸話を紹介しよう。元治元年(1864)3月、水戸の天狗党が決起した。その後降伏した隊士のうち、350名もが幕府に処刑されたことを知り、同じく薩摩をリードする大久保市蔵(利通)は「聞くに耐えぬ次第」と吐き捨て、これを「幕(府)滅亡の表」と日記に認めた。さらに幕府は、助命した天狗党員の一部を薩摩へ流刑とすることを計画したが、西郷は幕府への書状を起草し、「道理において出来かね申し候」と謝絶した。彼らは、次第に幕府への信頼を薄めていったのだ。こうした薩摩の微妙な変化は、やがて長州藩への強力な後方支援として結実する。
更新:11月23日 00:05