2014年07月07日 公開
2015年02月06日 更新
新選組という隊名は、もともと会津藩に古くからあった部隊の名前です。文久3年の8月18日の政変の際に、壬生浪士組が会津藩に従って御所警護に出動し、急進的な尊王攘夷を掲げる勢力の排斥に貢献したことが認められ、この隊名が与えられました。
ちなみに、「選」の字が「撰」と表記される場合もありますが、これはどちらも間違いではありません。というのも、会津藩も隊士も両方の表記をしており、字は特に意識されていなかったようです。
彼らが掲げたシンボルの「誠」の旗が、どのようにして決まったのか詳しいことはわかりません。二番組を率いた永倉新八が後年に語ったところでは、8月18日の政変の出動時に掲げたということですので、隊の結成後しばらくして作製されたと思われます。
隊旗の形状について、永倉は6尺(約180センチ)四方で、赤地に「誠」の字を白く染め抜いたと述べています。一方、新選組が屯所とした八木冢の者の記憶によると、縦4尺(約120センチ)、横3尺(約90センチ)とやや縦長で、「誠」の字の下には波形の山形があったとし、一般的に定着した隊旗のデザインは、これらの証言によるものです。
他の記録には、「誠」の字が金糸だったとするものや、白地に赤で「誠」と染めたもの、文字を「誠忠」とするものもあります。8月18日の政変時には、騎馬提灯にも「誠忠」と書かれていたという証言がありますので、草創期に旗も「誠忠」の文字が掲げられていたことは、十分に考えられます。いずれにせよ、会津藩や幕府に忠誠を尽くすということが彼らの理念でした。
★このほかのQ&Aは、歴史街道2014年7月号本誌でごらんください。
Q:隊服はどのようなデザインでしたか?
Q:新撰組で剣の実力が高かったのは誰ですか?
Q:隊士たちは戦闘ではどのように臨んだのでしょうか?
Q:「局中法度」はあったのでしょうか?
菊地明(歴史作家)
昭和26年(1951)、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒業。
主な著書、編著に『新選組全史』、『新選組日誌』、『新選組謎とき88話』、『新選組の新常識』など多数。
<掲載誌紹介>
7月号の読みどころ
「亭主はおるか。御用改めであるぞ」。
祇園祭宵々山にあたる元治元年(1864年)6月5日。京都に潜伏する浪士らの不穏な企みを察知した新選組は、その夜、二手に分かれて市中探索にあたり、近藤勇率いる一隊が三条の旅籠池田屋を突き止めました。そして近藤たちは、僅か四人で屋内に踏み込む決断を下します。小説や映画、ドラマでもおなじみの池田屋事件ですが、実はこれまで多くの虚構を交えたまま描かれてきました。監察の山崎丞は池田屋に潜入していたのか、古高俊太郎は何を供述したのか、桂小五郎はいたのか…。150年目の今、事件の不明な部分を整理しつつ、浪士らの思惑と、劣勢でも闘いに向かう新選組の覚悟を描き、池田屋事件の真実に迫ります。
第二特集は「台湾と日本人」です。
更新:11月22日 00:05