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山本覚馬・動乱の渦中で常に日本を見据え、戦い続けた不屈の会津藩士

2013年03月12日 公開
2022年08月25日 更新

中村彰彦(作家)

幕末の動乱の中で貫いた信念

幕末は象山や横井小楠をはじめ、多くの思想家が日本の行く末を案じ、活発に議論を交わした時代です。その中で、単に夢を抱くだけでなく、困難に直面しながらも、自らの考えを実現しようと突き進んだのが覚馬でした。

当時、覚馬の前には2つの「障壁」がありました。1つは藩内の守旧派です。周囲を山に囲まれた会津は、入手できる情報量に限界がありました。そのため、覚馬のように江戸で最先端の知識を吸収した人間と、国許の人間とでは、手にする情報量が異なり、当然、時代感覚にも大きな差が生じていたのです。

安政3年(1856)に江戸から戻った覚馬は、すぐさま日新館に蘭学所を設けるよう藩主・松平容保に進言し、さらに洋式兵制の導入を訴えました。この際、守旧派批判を口にしたため、1年間逼塞することになりますが、その後も文久3年(1863)には、自身の考える海防策を『守四門両戸之策 (しもんりょうこをまもるのさく)』という建白書にまとめ、提出しています。

もう1つの「壁」が、京都で繰り広げられた政争です。文久2年(1862)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保が藩士とともに上洛、治安維持に努めると、長州藩を中心とする尊攘激派との対立が深まっていきました。覚馬は元治元年(1864)春に上洛しますが、同年7月には、長州勢が暴発して御所に攻め込む禁門の変が起こります。

国内が一致団結して列強に対するどころか内乱が激化し、会津藩はその矢面に立たされました。そんな中で覚馬は、京都市中に洋学所を開き、英学や蘭学を教えていきます。しかも洋学所は会津藩士に限らず、他藩の士にも門戸を開き、その結果、生徒は他藩の者の方が多くなりました。挙国一致して列強にあたるべしという覚馬の姿勢が窺えます。

やがて慶応4年(1868)1月に鳥羽伏見の戦いが勃発すると、覚馬は洋学所の生徒たちに次のように述べました。

「お前たちは気にせずに学問を続けろ」

今、日本にとって急務なのは内戦ではなく、西洋を知ることである。それが覚馬の信念でした。そして、戦いの最中に薩摩藩に捕らわれますが、幽閉の身で『管見』をまとめ、新政府の主だった者たちに新時代の日本像を示したのです。しかもこの時、覚馬は病のためにほとんど失明していました。失明も幽閉もものともせず、『管見』を突きつけたその姿は、まさに「不屈」としか言いようがありません。

 

維新後の京都で体現したもの

覚馬という男の面白みは、維新後の軌跡にも見出せます。京都府知事を務めた槇村正直に見識を買われた覚馬は、明治3年(1870)に府顧問に招聘され、京都の近代化に取り組みます。その後も京都府会の議長を務めるなど、維新後の旧会津藩士の中では、「最大の成功者」の1人となりました。

しかし、明治時代の覚馬で真に見るべきは、幕末以来掲げていた「日本を守るために何をすべきか」という気概を、終生、失わなかった点にあるでしょう。

覚馬が京都近代化の軸に据えたのは、やはり『管見』で主張した「教育」と「物づくり」です。「教育」では学制発布以前より小中学校を次々と創設。また「女紅場」という女子学校を設立して、女子教育にも力を入れました。

この女紅場で、教師や女子寮の監督を務めたのが妹の八重です。彼女が覚馬を頼って京都に出てきたのは、明治4年(1871)のこと。7年ほども離れ離れになっていた兄を慕い、見ず知らずの京都にまで来たのですから、八重にとって覚馬が心から尊敬できる兄だったことは間違いありません。

「物づくり」で特筆すべきは、舎密局の設置です。いわば化学研究所のことで、ガラスや薬剤、ビールまで、幅広い西洋品の国産化が進められました。他にも養蚕場や製紙場を設け、古都・京都は日本最先端の工業都市へと変貌、今日の繁栄の基礎を築くに至るのです。このような、「人づくり」「物づくり」を重んじた覚馬の政策は、薩長が牛耳る新政府に対して、京都をモデルに「近代日本の理想像」を示した、と言えるのかもしれません。

さらに覚馬は、近代日本の精神の核とすべき、「新たな価値観」の必要性を痛感し、模索します。そして注目するのが、キリスト教の精神でした。背景にあるのは、故郷の会津が新政府軍に理不尽にも蹂躙された悲劇でしょう。会津藩士とその家族の多くが無念の最期を遂げ、いわれなき「賊軍」の汚名までも着せられました。維新後も故郷を追われ、不毛の地で塗炭の苦しみを味わわされ、職に就くにも差別されます。まさに薩長の、「勝てば官軍」の歪んだ価値観が横行していました。

そんな中で、少なからぬ会津の人々が、「公正」「平等」を重んじるキリスト教に惹かれていきます。覚馬もまた、義も節もカで捻じ伏せ、「勝てば官軍」と称して憚らない価値観を断じて許してはならないと信じる中で、キリスト教の精神にある合理性、公正さに着目するに至りました。そしてこのキリスト教精神こそ、これからの日本に求められると確信した覚馬は、八重の夫・新島襄による同志社設立を支援し、普及に努めていくのです。

「いかにして国の役に立つか」

覚馬の生涯は、この信念に貫かれています。

それはやはり、彼が会津藩士であったことが大きく影響しているのでしょう。会津藩士の胸には、藩祖・保科正之が定めた「将軍家への忠義を第一にせよ」という会津藩家訓の精神が深く刻み込まれていました。だからこそ、会津藩は黒船が来航すると品川や富津の湾岸警備を務め、また火中に粟を拾うような京都守護職就任も、涙を呑んで承諾したのです。彼らは「国家を守る」ことを自分たちのレゾンデトール(存在意義)とし、そのために取りうる手立てを真剣に考えていました。革命家気取りの軽佻浮薄な志士たちとは、自ずから責任感も、発想の土台も異なるのです。

幕末の動乱の中で、師から継承した真の攘夷をなすための道筋を見失うことなく、新たな知識を吸収しながら、日本が目指すべき国家像を描いた「先見力」と、その実現のためにあらゆる障害に立ち向かっていった不屈の「会津魂」。そんな山本覚馬の姿から、私たちは学ぶべきものが多いのではないでしょうか。

 

中村彰彦(なかむら・あきひこ)

作家。昭和24年(1949)、栃木県生まれ。出版社勤務を経て、文筆活動に専念。平成6年(1994)に『二つの山河」で第111回直木賞受賞。『五左衛門坂の敵討』(第1回中山義秀文学賞)、『落花は枝に還らずとも』(第24回新田次郎文学賞)、『会津のこころ』など著書多数。
 

『歴史街道』2013年4月号

慶応4年(1868)、妹の八重が銃を手に鶴ケ城で籠城戦を挑んでいた頃、兄の会津藩士・山本覚馬は京都の薩摩藩邸に幽閉されながらも、戦い続けていました。洋式砲術家の覚馬は失明し、その腕を発揮できなくなっていましたが、彼は弾丸の代わりに、「建白書」を武器とします。それは新たな日本が目指すべき国家像を示し、無益な戦いを続ける新政府軍を一喝するものでした。「今、日本が急ぐべきは、列強に伍する国力をつけることだ。 志半ばで斃れた人々に代わり、俺がやらねばならぬ」。維新後も八重を導きながら戦い続けた、山本覚馬の先見力と不屈の会津魂を描きます。第二特集は春の京都の魅力を紹介する「花の古都『隠れ名所』を訪ねる」です。

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