2012年11月24日 公開
2022年11月09日 更新
「父上、生きるか死ぬるかのご決断にございまするぞ」
「家康についたからとて、生き残れるという保証はあるまい」
「さりながら、父上。この下野にある大名は1つ残らず、内府に与しましょうぞ」
「おぬしも、そうするのじゃな」
信幸は、椀を膝元に置いた。
「嫌いであったか、芋雑炊が。真田郷の芋ぞ」
しかし、信幸は応えない。
「治部少が泣くなあ」
昌幸の溜め息まじりの呟きと共に、再び、さいつ殿……という呼び掛けが、信幸の耳朶に甦ってきた。信幸と三成は、実の兄弟のように仲が良かった。真田郷から送られてきた芋を信幸自ら雑炊にして、故郷の味にござればご賞味くだされよと食べさせたこともある。
「……父上。1つだけ、お聞かせくだされ」
「何なりと問うがいい」
「父上は、太閤殿下より表裏比興の者と評されました。武田家の重臣であったにもかかわらず、主家が滅亡するや織田家に仕え、北条家に仕え、徳川家に仕え、さらには上杉家にも従われたからにございましょう。それは何故にございまするか。家名大事と思し召されたからではございませぬか」
「家名なんぞ、くだらぬ」
「されど、父上」
「信幸よ。そも、家名、武名とは何ぞ。武名は所詮、合戦で勲功を挙げたか挙げぬか。敵の首を獲ったか獲らぬかで決まるもの。おぬしや幸村がこの度の大戦さで武名を挙げられるかどうかなど、一切予測は立たぬ。家名もまた然りである」
「では、何故、父上は戦われるのです」
「漢 <おとこ> の意地よ」
昌幸は、莞爾と嗤った。
「わしが忠義を尽くさんとするは、信玄公ただお一人である。その信玄公の遺された武田家を滅亡に追い遣ったばかりか、遺臣悉くを召し抱え、今日の隆盛を築いたは内府家康に他ならぬ。せめてわし一人家康に抗せずば、信玄公も浮かばれまい。正義だの、忠節だの、そのような大義名分は、この真田昌幸には無用である」
昌幸の言葉に幸村が領く。
「それがしもそう思いまする。兄上はそれほど家名大事とお思いか」
「家名を守るというは、並大抵のことではなかろう。たかが一度や二度の戦さに命拾いをしたからというて、家名が保てるか。勲功を挙げたからというて、家名を残せるか。そんな甘いものではない。家名を残し、伝えてゆくためには、主だけでなく、正室、継室、側室からそれぞれの縁戚にいたる一族郎党全てが一丸となって押し上げねばならぬ。それが家名ぞ。この度の戦さで生き残っただけで、家名が保てるなどとは考えてはおらぬ。だが、すでにこの身は徳川家に縁を持ち、父上とは別個の一大名として内府を支えておる。それ故、わが一族郎党とともに真田の家名を守らんとすれば、内府に賭けることになろう。父上、それがしは、わが信ずる道をゆきまする」
しばしの沈黙の後、信幸は膝元の盃を手にするや、すうっと飲み干し、腰を上げた。
「もう、ゆくのか」
「充分に酔わせていただきました。これ以上いただいては、足元がおぼつきませぬ」
「堅固でな」
「父上こそ、幸村共々御達者で」
一礼し、信幸は小山の秀忠本陣へと向かうべく、薬師堂を出た。
月闇の中を去ってゆく信幸を思いつつ、昌幸は一言、こう洩らした。
「あやつ、水盃で酔いおったわ」
後年――。
信幸改め信之が初代藩主となった松代藩では、城内花の丸御殿大広間の床の間に吉光御長持并御腰物箪笥なる箱が飾られていた。家康から拝領した吉光銘の短刀などが収められていることからその名が付けられたものだが、維新を過ぎてから中身が確認され、三成から昌幸に送られた書状のほか、さいつ殿に宛てられた書状まで発見された。
箱が伝えられた明確な理由はわからないが、
――すまぬ、治部殿。
と、涙を拭って小山へ駈けた信幸の人となりが、何とはなしに偲ばれよう。
更新:11月24日 00:05